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福岡・うきは市筑後吉井(重伝地区)の町並み

2016-09-10 17:17:36 | 福岡
2016年9月5日、九州旅行の2か所目です。台風12号を避けて大分県日田市の豆田町の町並みを散策した後に大分自動車道で日田ICから杷木ICで走り、筑後吉井の町並みに行きます。
うきは市観光協会の隣の無料駐車場に自動車を止めて散策です。JR筑後吉井駅から北東約1Kmほどのところです。
福岡県うきは市吉井町1043−2
map
説明書です。

うきは市観光協会です。本日休館でした。今日は月曜日・・・。パンフレットは手に入らず。



うきは市の中心部の筑後吉井地区について、説明書より『かつて吉井町は田畑に水がなく穀物の収穫も少なく農民の飢えを見兼ねた庄屋たちが久留米の有馬藩に筑後川から水を引き入れる工事の嘆願書を出しました。この嘆願書には「これらの工事に掛かる費用は私共、五人の庄屋が全部受け持ち決してお上にはご迷惑をかけませぬ」と書かれていました。寛文4年(1664)1月11日工事が始まり長野村(吉井町)の入り口には5人の「はりつけ台」が立てられ、これを見た人々は「庄屋どんを殺すな」とばかり老人、女、子供までがこの水路工事にかかり、寛文4年(1664)3月に人口の川(南新川)が完成しました。
 川の新設工事に成功によりこの地方が有馬藩有数の穀倉地帯となりました。南新川が田畑を潤すだけでなく唐臼、水車が造られ精米、製粉、酒造、製麺、櫨蝋、菜種油など工業、商業の豊かな町造りの基盤となりました。また寛文3年(1663)有馬藩下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の中心として吉井に宿駅が新設されました。吉井の宿場町は豊富な穀物を地主商人などが商品化、販売し莫大な富を蓄え、その後「分限者どん」の住居造りが始まりました。「吉井銀(よしいがね)」と呼ばれる有力商人の金融活動などにより繁栄しました。寛延元年(1748)、文化12年(1815)、明治2年(1869)に大火に見舞われ、草葺きの町屋にかわって瓦葺塗屋造が普及し、「分限者どん」たちは富を象徴する白壁土蔵の防火対策の住居を競って造りました。明治、大正と繁栄を見せた白壁土蔵造りの吉井の町並みも第2次世界大戦後の経済・社会の変動の中で失われて来ましたが、平成8年12月に福岡県で初めて(全国で44番目)国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、修理修復が行われ保存されています。現在でも、豊後街道の街路沿いに漆喰塗の重厚な土蔵造りの商家跡が連続する町並みと、災除川と南新川沿いに広がる屋敷群が約250ほど、ほぼ当時の姿のまま残されており、本保存地区は、町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的景観を形づくり、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を今に伝えています。』
案内図、赤い点線が筑後吉井の重要伝統建築物群保存地区です。

















居蔵の館
「この建物は吉井町の重厚な町並みを形成した土蔵造りの中でも完成度の高い居蔵家のひとつです。明治初期の大火後、建築され軒先まで漆喰で塗り込まれ、また2階の窓は鉄製の扉によって覆われており外部から延焼しにくい構造になっています。精蝋業で財をなした大地主の分家で銀行経営に携わる当主一家の家でした。」





白壁通りへ

「現在この道路は国道210号線に通じる県道甘木・吉井線として利用され、通称「白壁通り」と呼ばれています。道路拡張で西側には古い建物は少ないですが、東側は海鼠壁で白壁土蔵造りの重厚な町並みが残っています。この白壁通りでは、おひなさまめぐりや小さな美術館めぐり、吉井祇園祭り、若宮おくんち、しらかべ楽市楽座など一年を通して多くの祭りやイベントの場所として賑いを見せています。」









































豊後街道(国道210号線)
「この豊後街道は筑後軌道が走り大正3年には、蒸気機関車になりました。その後、昭和3年に国鉄久大本線が開通するとレールが取り除かれ25年間の幕を閉じることになりました。」











































金子文夫資料館

お疲れ様でした。

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