2016年12月19日から22日までの4日間、阪急交通社の沖縄大感謝祭のツアーに行きました。3泊4日、夕食2回・朝食3回、神戸空港発着、周遊バスプランで3万円/人です。3日目の観光地の琉球村の次に首里城です。
「首里城の創建は14世紀頃といわれていますが、詳しいことはわかっていません。その後、1406年に尚巴志が琉球王国支配のための居城として以来、1879年、最後の国王・尚秦が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇りました。首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開いたのです。1945年の沖縄戦で廃爈に帰した首里城正殿は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して18世紀の首里城をモデルとして復元されました。鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり、沖縄のシンボルそのものといえるでしょう。」
入館料820円です。
沖縄県那覇市首里金城町1-2
map
首里城跡(世界遺産)
「那覇港を眼下にした丘陵上に地形を巧みに利用して築城されたグスクです。三山鼎立時には中山国王の居城で、1429年に琉球王国が成立した後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たしました。これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半の築城であることが判明しています。グスクは内郭と外郭からなり、正殿や南殿、北殿などの中心的建物群は内郭に配されています。正殿は琉球独特の宮殿建築で、戦前は国宝に指定されていましたが、第二次世界大戦で焼失し、平成4年に復元されました。正殿前の御庭は、冊封をはじめとした国の重要な儀式が行われた場所です。 」
案内図
守礼門
園比屋武御嶽石門(世界遺産)
『1519年に創建された石造の門です。日本、中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造建物で、木製の門扉以外は全て木造建物を模した石造となっています。この石門も第二次世界対大戦で破壊されましたが、昭和30~32年に保存修理されました。門背後の樹林地が御獄と呼ばれる聖域で、国王が国内を巡幸する際の安全や、「御新下り」の儀式をするために斎場御獄へ出かける際の祈願を行った場所でした。現在でもこの御獄には多くの人が参拝に訪れています。』
歓会門
『首里城の正門、中国皇帝の使者"冊封使"など、訪れる人への歓迎の意を込めて名前が付けられています。別名「あまへ御門」。』
狛犬、左右とも口が開いています。
見取図
瑞泉門
『瑞泉とは"立派なめでたい泉"という意味です。門の前にある湧き水「龍桶」にちなんで名付けられました。別名「ひかわ御門」。』
漏刻門
『櫓の中に水時計で時刻を計ったことで名付けられた門。別名「かご居せ御門」。身分の高い役人も国王に敬意を表してここで籠を降りました。』
日影台
「漏刻が水時計であるのに対し、日影台は日時計のことです。琉球王国時代、首里城では日時計を用いて、正午およびその前後の時刻をはかりまた漏刻でくわしい時刻をはかったといわれています。日影台は、十二支が刻まれた時刻板(石の円盤)に銅製の棒が取り付けられ、その日影によって時刻をはかるようになっていたと推測されています。日影台の示す時(地方太陽時)は、日本標準時に対して約30分遅れています。」
供屋
「古絵図などの資料に基づいて復元。往時の具体的な使われ方はわかっていません。」
万国津梁の鐘
「1458年に首里城正殿に掛けられた鐘。海洋貿易で栄えた琉球王国の気概を示す銘文で有名。む
広福門
『東側には戸籍を監理する「大与座」、西側には寺や神社を監理する「寺社座」がありました。別名「長御門」。』
系図座・用物座
『「系図座」は士族の家系図の管理や王府資料の編集、゜「用物座」は城内で使う物品や資料等の管理をしていました。』
首里森御獄(すいむいうたき)
『城内にある礼拝所のひとつで、琉球最古の歌謡集「おもろさうし」に数多く謡まれています。神話には「神が作られた聖地である」と記されています。』
天水蓋
奉神門
『「御神」へ続く最後の門。3つの入口があり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通れる門でした。別名「君誇御門」。』
正殿
「約500年にわたって琉球王国の城としてありつづけた首里城、1992年に復元されました。」
唐破風妻飾
「唐破風の妻壁には中央に火焔宝珠と大蟇股、両脇には金龍と瑞雲の彫刻が施されています。」
正殿大龍柱
「高さ4.1m、台座は琉球石灰岩、材質は細粒砂岩」
獅子
「正殿はさまざまな彫刻で飾られているが、木彫刻にも優れた技術が見られます。向拝奥小壁には立体的に彫られた獅子と金龍もそのひとつです。」
北殿
「評定所とよばれる重要案件を詮議した政務の中枢機関です。また冊封使を歓待した場所でもありました。」
御庭
南殿・番所
「左側ニ階建てが南殿、かつて、年間を通じて行催事などが行われ、薩摩藩の役人の接待を行う場所としても用いられました。現在は、王朝時代に製作された美術工芸品などの展示を行っています。南殿の右側にある一階平屋建てが番所。かつては首里城へ登城してきた人々の取次を行っていました。」
番所から建物内に入っていきます。美術工芸品の部屋は撮影禁止です。
御差床(うさすか)
「国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われたところです。お寺によく見かける仏像を置く台(須見檀)によく似ています。天井も高くしており格式をつけています。御差床の正面には御庭に面した小部屋があり、正月の儀式の時など、国王が御轎椅(うちゅーい・椅子)に座り御庭に並ぶ諸官の謁見を受けました。国王の椅子については、1477年~1526年まで在位した尚真王の御後絵(肖像画)をもとに再現したものです。」
右掖門
「歓会門、久慶門から淑順門へ直接通じる門で、往時は淑順門から御内原へ入りました。別名「寄内御門」ともいい、創建は15世紀頃と伝えられています。
淑順門
『国王やその家族が暮らす御内原と呼ばれる場所への表門で、別名「みもの御門」「うなか御門」ともいい、門の造りは櫓門形式・入母屋造・本瓦葺戸なっています。』
久慶門
「首里城外郭の北側に位置し、かつては通用門として主に女性が使用しました。石造拱門で上部に木造瓦葺の櫓があります。」
円鑑池と弁財天堂
天女橋(重要文化財)
「室町後期の1502年築造、石造単アーチ橋、高欄付。朝鮮から贈られた方冊藏経を納めるため円覚寺の前方に円鑑池を掘り、中之島を造って経蔵が建てられたが、この中之島へ架け渡された橋が当時観蓮橋と呼ばれた天女橋である。高欄付き石造單アーチ橋で中央アーチ上の床面を高くし、中国南部に多い駝背橋の形式をとっている。戦前の沖縄には多くのアーチ橋が殘されていたが、そのほとんどが戦災で失われた現在天女橋はアーチ橋として最も整った遺構であり、意匠構造とも特色がある。」
弁財天堂
龍潭、城の濠に当たる。
「首里城の創建は14世紀頃といわれていますが、詳しいことはわかっていません。その後、1406年に尚巴志が琉球王国支配のための居城として以来、1879年、最後の国王・尚秦が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇りました。首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開いたのです。1945年の沖縄戦で廃爈に帰した首里城正殿は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して18世紀の首里城をモデルとして復元されました。鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり、沖縄のシンボルそのものといえるでしょう。」
入館料820円です。
沖縄県那覇市首里金城町1-2
map
首里城跡(世界遺産)
「那覇港を眼下にした丘陵上に地形を巧みに利用して築城されたグスクです。三山鼎立時には中山国王の居城で、1429年に琉球王国が成立した後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たしました。これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半の築城であることが判明しています。グスクは内郭と外郭からなり、正殿や南殿、北殿などの中心的建物群は内郭に配されています。正殿は琉球独特の宮殿建築で、戦前は国宝に指定されていましたが、第二次世界大戦で焼失し、平成4年に復元されました。正殿前の御庭は、冊封をはじめとした国の重要な儀式が行われた場所です。 」
案内図
守礼門
園比屋武御嶽石門(世界遺産)
『1519年に創建された石造の門です。日本、中国の両様式を取り入れた琉球独特の石造建物で、木製の門扉以外は全て木造建物を模した石造となっています。この石門も第二次世界対大戦で破壊されましたが、昭和30~32年に保存修理されました。門背後の樹林地が御獄と呼ばれる聖域で、国王が国内を巡幸する際の安全や、「御新下り」の儀式をするために斎場御獄へ出かける際の祈願を行った場所でした。現在でもこの御獄には多くの人が参拝に訪れています。』
歓会門
『首里城の正門、中国皇帝の使者"冊封使"など、訪れる人への歓迎の意を込めて名前が付けられています。別名「あまへ御門」。』
狛犬、左右とも口が開いています。
見取図
瑞泉門
『瑞泉とは"立派なめでたい泉"という意味です。門の前にある湧き水「龍桶」にちなんで名付けられました。別名「ひかわ御門」。』
漏刻門
『櫓の中に水時計で時刻を計ったことで名付けられた門。別名「かご居せ御門」。身分の高い役人も国王に敬意を表してここで籠を降りました。』
日影台
「漏刻が水時計であるのに対し、日影台は日時計のことです。琉球王国時代、首里城では日時計を用いて、正午およびその前後の時刻をはかりまた漏刻でくわしい時刻をはかったといわれています。日影台は、十二支が刻まれた時刻板(石の円盤)に銅製の棒が取り付けられ、その日影によって時刻をはかるようになっていたと推測されています。日影台の示す時(地方太陽時)は、日本標準時に対して約30分遅れています。」
供屋
「古絵図などの資料に基づいて復元。往時の具体的な使われ方はわかっていません。」
万国津梁の鐘
「1458年に首里城正殿に掛けられた鐘。海洋貿易で栄えた琉球王国の気概を示す銘文で有名。む
広福門
『東側には戸籍を監理する「大与座」、西側には寺や神社を監理する「寺社座」がありました。別名「長御門」。』
系図座・用物座
『「系図座」は士族の家系図の管理や王府資料の編集、゜「用物座」は城内で使う物品や資料等の管理をしていました。』
首里森御獄(すいむいうたき)
『城内にある礼拝所のひとつで、琉球最古の歌謡集「おもろさうし」に数多く謡まれています。神話には「神が作られた聖地である」と記されています。』
天水蓋
奉神門
『「御神」へ続く最後の門。3つの入口があり、中央の門は国王や身分の高い人だけが通れる門でした。別名「君誇御門」。』
正殿
「約500年にわたって琉球王国の城としてありつづけた首里城、1992年に復元されました。」
唐破風妻飾
「唐破風の妻壁には中央に火焔宝珠と大蟇股、両脇には金龍と瑞雲の彫刻が施されています。」
正殿大龍柱
「高さ4.1m、台座は琉球石灰岩、材質は細粒砂岩」
獅子
「正殿はさまざまな彫刻で飾られているが、木彫刻にも優れた技術が見られます。向拝奥小壁には立体的に彫られた獅子と金龍もそのひとつです。」
北殿
「評定所とよばれる重要案件を詮議した政務の中枢機関です。また冊封使を歓待した場所でもありました。」
御庭
南殿・番所
「左側ニ階建てが南殿、かつて、年間を通じて行催事などが行われ、薩摩藩の役人の接待を行う場所としても用いられました。現在は、王朝時代に製作された美術工芸品などの展示を行っています。南殿の右側にある一階平屋建てが番所。かつては首里城へ登城してきた人々の取次を行っていました。」
番所から建物内に入っていきます。美術工芸品の部屋は撮影禁止です。
御差床(うさすか)
「国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われたところです。お寺によく見かける仏像を置く台(須見檀)によく似ています。天井も高くしており格式をつけています。御差床の正面には御庭に面した小部屋があり、正月の儀式の時など、国王が御轎椅(うちゅーい・椅子)に座り御庭に並ぶ諸官の謁見を受けました。国王の椅子については、1477年~1526年まで在位した尚真王の御後絵(肖像画)をもとに再現したものです。」
右掖門
「歓会門、久慶門から淑順門へ直接通じる門で、往時は淑順門から御内原へ入りました。別名「寄内御門」ともいい、創建は15世紀頃と伝えられています。
淑順門
『国王やその家族が暮らす御内原と呼ばれる場所への表門で、別名「みもの御門」「うなか御門」ともいい、門の造りは櫓門形式・入母屋造・本瓦葺戸なっています。』
久慶門
「首里城外郭の北側に位置し、かつては通用門として主に女性が使用しました。石造拱門で上部に木造瓦葺の櫓があります。」
円鑑池と弁財天堂
天女橋(重要文化財)
「室町後期の1502年築造、石造単アーチ橋、高欄付。朝鮮から贈られた方冊藏経を納めるため円覚寺の前方に円鑑池を掘り、中之島を造って経蔵が建てられたが、この中之島へ架け渡された橋が当時観蓮橋と呼ばれた天女橋である。高欄付き石造單アーチ橋で中央アーチ上の床面を高くし、中国南部に多い駝背橋の形式をとっている。戦前の沖縄には多くのアーチ橋が殘されていたが、そのほとんどが戦災で失われた現在天女橋はアーチ橋として最も整った遺構であり、意匠構造とも特色がある。」
弁財天堂
龍潭、城の濠に当たる。
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