2016年12月19日から22日までの4日間、阪急交通社の沖縄大感謝祭のツアーに行きました。3泊4日、夕食2回・朝食3回、神戸空港発着、周遊バスプランで3万円/人です。3日目の観光地の琉球村、首里城に次いでバスで移動します。国際通りを通過してひめゆりの塔の横の店で昼食です。午後のコースとしてオプションで南部観光を選択しました。4300円/人です。オプションに参加しない人は国際通りで5時間の坂作です。
国際通りは那覇市久茂地と安里を結ぶ通りで、戦後、商店や劇場などでいち早く復興を遂げたところです。現在は、土産物店、商店や飲食店などがひしめいています。
沖縄都市モノレールの牧志駅から沖縄県庁にバスが走ります。
牧志駅
ひめゆりの塔の駐車場前にあるレストハウス優美堂で昼食です。
海葡萄海鮮丼を食べました。
みやげもの店
ひめゆりの塔
『沖縄戦に動員されたひめゆり学徒の最後の地のひとつである沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして撤退し、分散して地下壕に潜んだ。戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名と生徒2名は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。』
沖縄県糸満市字伊原671-1
map
近くの店舗
県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦の悲惨な状況を隣に併設しているひめゆり平和祈念資料館で伝えています。
国際通りは那覇市久茂地と安里を結ぶ通りで、戦後、商店や劇場などでいち早く復興を遂げたところです。現在は、土産物店、商店や飲食店などがひしめいています。
沖縄都市モノレールの牧志駅から沖縄県庁にバスが走ります。
牧志駅
ひめゆりの塔の駐車場前にあるレストハウス優美堂で昼食です。
海葡萄海鮮丼を食べました。
みやげもの店
ひめゆりの塔
『沖縄戦に動員されたひめゆり学徒の最後の地のひとつである沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして撤退し、分散して地下壕に潜んだ。戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名と生徒2名は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。』
沖縄県糸満市字伊原671-1
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県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦の悲惨な状況を隣に併設しているひめゆり平和祈念資料館で伝えています。
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