2017年6月28日、岐阜の美濃、郡上八幡の古い町並み散策、下呂温泉宿泊での1泊2日の旅行です。神戸に帰る前に名古屋城観光しました。
名古屋市中区本丸1-1
map
拝観料500円です。
パンフレットより「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長14年(1609)豊臣方への備えとして名古屋城の築城と、清須から新城下への街まるごと引越しを決定。この新たに造られた碁盤割の街が現在の名古屋の原型となり、町や橋の名前も受け継がれています。
慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって徳川家康は、加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請(土木工事)を命じました。これを天下普請といいます。天守や櫓の作事(建築工事)は小堀遠州・中井正清らに命じられ、慶長17年(1612)にほぼ完成しました。尾張初代藩主として家康九男の義直が入り、以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄ました。
維新後も名古屋離宮としてその美しいたたずまいを誇った名古屋城は、昭和5年(1930)、城郭建築における初めての国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の名古屋空襲によって本丸のほとんどが焼失しました。しかし、名古屋のシンボルとしての天守の再建を望む市民の声は日に日に高まり、昭和34年(1959)ついに天守が再建されました。」
案内図
正門
金のシャチ
「鯱は空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の創建時の金鯱は、徳川家の権力・財力を誇るもので、貼られた金の量は慶長大判で1940枚といわれています。現在のシャチは南側で高さ2.579m、重量1,215kg、金板の種類18k、金板の厚さ0.15mm、うろこの枚数126枚、金量43.39kg。」
西南隅櫓(重要文化財)
『桃山時代の慶長17年(1612)頃建造、二重三階、本瓦葺。規模・構造は東南隅櫓と同じですが、「石落し」の破風の形が異なっています。』
内堀
石垣
表二之門(重要文化財)
「高麗門、本瓦葺。本丸南側にあり、鉄板張りとして用材は木割りが太く堅固に造られています。袖掘は土塀で鉄砲狭間を開いています。」
内堀
東南隅櫓(重要文化財)
『二重三階、本瓦葺。本丸の南東隅にある櫓、出窓には「石落し」が設けられています。かつては武具が納められていました。』
本丸表一之門跡
「古名は南一之門、本丸大手の主門で、外門である表二之門とともに枡形を形成していた。入母屋造・本瓦葺の二階建てで、門扉の上には石落しが設けられていた。昭和20年(1945)の空襲で焼失した。」
本丸御殿
「この建物は、尾張藩主の住居・政庁として慶長20年(1615)に建てられた書院造を複元したものです。御殿は木曽地方などで育った天然の桧をたくさん使ってつくられています。桧の香りが漂う建物に入ると、虎の障壁画が見る者を圧倒します。これは復元模写した作品で、描かれた当時の色彩を複元しています。襖の引手金具や長押の釘隠など、いろいろな所にある金具も部屋の威厳を高めています。表書院は名古屋城本丸で一番広く、各式を重視した建物です。玄関は竿縁天井だったのが、ここからは格天井に変わります。部屋にも差をつけて、藩主の座る部屋「上段之間」は床や天井を一段と高くし、床や違棚、付書院、帳台構という座敷飾があります。対面所上段之間の格天井は二重折上げ小組格天井で、格縁には黒漆を施し、天井板には金箔が押しています。」
玄関・車寄
「本丸御殿を訪れた人がまず通され、取り次ぎを待つ建物です。玄関といえども、一之間(18畳)・二之間(28畳)の2部屋からなっており、一之間には床もあります。四周の壁や襖には、来訪者を威圧する勇猛な虎や豹が描かれています。」
ハート形になっています。釘隠
玄関の襖絵、一之間
表書院
「正規の謁見に用いられた広大な建物です。上段之間(15畳)、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋からなり、江戸時代は大広間と呼ばれていました。障壁画は、松、桜、雉子などの華やかな花鳥図です。」
対面所
「藩主と身内や家臣の私的な対面や宴席に用いられた建物です。上段の間(18畳)、次之間(18畳)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の4部屋があり、上段之間と次之間には、京都や和歌山の名所が、多くの人物とともに描かれています。」
格の表現
「高位の人が座る位置に、座敷飾を設けたり、床を一段高くすることにより、一見して高位の人が使う部屋であることが分かるように工夫しています。天井は、竿縁天井や格天井、折上げ天井など、建物や部屋らよって使い分けられています。表書院の上段之間の天井は折上げ小組天井ですが、対面所上段之間では二重折上げ小組格天井で、しかも格縁は黒漆塗であり天井板には金箔が押してあります。」
下御膳所
「長囲炉裏が備えられており、料理の配膳や温めなおしのための建物だと考えられています。」
天井に煙出し
本丸御殿ミュージアムショップ
天守閣
「地下1階、地上7階」
排水溝
天守の入口
金鯱
案内図
エレベーターで5階まで上がり、そして展望室に階段で上ります。階段を歩いて下り見学します。
石引き
展示物
三千両箱
千両箱
軒丸瓦と瓦釘
天守からの眺望
釘隠の金具
展示物
風俗図
天井の絵
鉄砲
御用部屋
駕籠
対面所
食事の再現
刀
鍔
城下模型
骨組模型
東一之門跡
清正石
「名古屋城で最大の石垣石材。」
旧二之丸東二之門(重要文化財)
「高麗門形式で、二之丸東鉄門(ひがしくろがねもん)枡形にあったものです。」
内堀
清正公石曳きの像
青松葉事件遺跡
「慶応4年(1868)正月20日、二之丸御殿向屋敷の庭前で尾張徳川家の三重臣が斬首され、いわゆる青松葉事件があった。」
二之丸広場から名勝二之丸庭園へ
「元和年間(1615~23)二之丸御殿の造営にともなって同御殿の北側に設けられた庭園です。享保年間(1716~36)以降、たびたび改修され、枯山水回遊式庭園に改められました。」
庭園案内図
那古野城跡
南池
二之丸東庭園
石垣の刻印(刻紋)
『城内の石垣には多種多様の記号を刻んだ石があります。これは石垣の築造を命じられた諸大名が、他大名と区別するために刻んだ「目じるし」です。』
お疲れ様でした。
名古屋市中区本丸1-1
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拝観料500円です。
パンフレットより「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長14年(1609)豊臣方への備えとして名古屋城の築城と、清須から新城下への街まるごと引越しを決定。この新たに造られた碁盤割の街が現在の名古屋の原型となり、町や橋の名前も受け継がれています。
慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって徳川家康は、加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請(土木工事)を命じました。これを天下普請といいます。天守や櫓の作事(建築工事)は小堀遠州・中井正清らに命じられ、慶長17年(1612)にほぼ完成しました。尾張初代藩主として家康九男の義直が入り、以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄ました。
維新後も名古屋離宮としてその美しいたたずまいを誇った名古屋城は、昭和5年(1930)、城郭建築における初めての国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の名古屋空襲によって本丸のほとんどが焼失しました。しかし、名古屋のシンボルとしての天守の再建を望む市民の声は日に日に高まり、昭和34年(1959)ついに天守が再建されました。」
案内図
正門
金のシャチ
「鯱は空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の創建時の金鯱は、徳川家の権力・財力を誇るもので、貼られた金の量は慶長大判で1940枚といわれています。現在のシャチは南側で高さ2.579m、重量1,215kg、金板の種類18k、金板の厚さ0.15mm、うろこの枚数126枚、金量43.39kg。」
西南隅櫓(重要文化財)
『桃山時代の慶長17年(1612)頃建造、二重三階、本瓦葺。規模・構造は東南隅櫓と同じですが、「石落し」の破風の形が異なっています。』
内堀
石垣
表二之門(重要文化財)
「高麗門、本瓦葺。本丸南側にあり、鉄板張りとして用材は木割りが太く堅固に造られています。袖掘は土塀で鉄砲狭間を開いています。」
内堀
東南隅櫓(重要文化財)
『二重三階、本瓦葺。本丸の南東隅にある櫓、出窓には「石落し」が設けられています。かつては武具が納められていました。』
本丸表一之門跡
「古名は南一之門、本丸大手の主門で、外門である表二之門とともに枡形を形成していた。入母屋造・本瓦葺の二階建てで、門扉の上には石落しが設けられていた。昭和20年(1945)の空襲で焼失した。」
本丸御殿
「この建物は、尾張藩主の住居・政庁として慶長20年(1615)に建てられた書院造を複元したものです。御殿は木曽地方などで育った天然の桧をたくさん使ってつくられています。桧の香りが漂う建物に入ると、虎の障壁画が見る者を圧倒します。これは復元模写した作品で、描かれた当時の色彩を複元しています。襖の引手金具や長押の釘隠など、いろいろな所にある金具も部屋の威厳を高めています。表書院は名古屋城本丸で一番広く、各式を重視した建物です。玄関は竿縁天井だったのが、ここからは格天井に変わります。部屋にも差をつけて、藩主の座る部屋「上段之間」は床や天井を一段と高くし、床や違棚、付書院、帳台構という座敷飾があります。対面所上段之間の格天井は二重折上げ小組格天井で、格縁には黒漆を施し、天井板には金箔が押しています。」
玄関・車寄
「本丸御殿を訪れた人がまず通され、取り次ぎを待つ建物です。玄関といえども、一之間(18畳)・二之間(28畳)の2部屋からなっており、一之間には床もあります。四周の壁や襖には、来訪者を威圧する勇猛な虎や豹が描かれています。」
ハート形になっています。釘隠
玄関の襖絵、一之間
表書院
「正規の謁見に用いられた広大な建物です。上段之間(15畳)、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋からなり、江戸時代は大広間と呼ばれていました。障壁画は、松、桜、雉子などの華やかな花鳥図です。」
対面所
「藩主と身内や家臣の私的な対面や宴席に用いられた建物です。上段の間(18畳)、次之間(18畳)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の4部屋があり、上段之間と次之間には、京都や和歌山の名所が、多くの人物とともに描かれています。」
格の表現
「高位の人が座る位置に、座敷飾を設けたり、床を一段高くすることにより、一見して高位の人が使う部屋であることが分かるように工夫しています。天井は、竿縁天井や格天井、折上げ天井など、建物や部屋らよって使い分けられています。表書院の上段之間の天井は折上げ小組天井ですが、対面所上段之間では二重折上げ小組格天井で、しかも格縁は黒漆塗であり天井板には金箔が押してあります。」
下御膳所
「長囲炉裏が備えられており、料理の配膳や温めなおしのための建物だと考えられています。」
天井に煙出し
本丸御殿ミュージアムショップ
天守閣
「地下1階、地上7階」
排水溝
天守の入口
金鯱
案内図
エレベーターで5階まで上がり、そして展望室に階段で上ります。階段を歩いて下り見学します。
石引き
展示物
三千両箱
千両箱
軒丸瓦と瓦釘
天守からの眺望
釘隠の金具
展示物
風俗図
天井の絵
鉄砲
御用部屋
駕籠
対面所
食事の再現
刀
鍔
城下模型
骨組模型
東一之門跡
清正石
「名古屋城で最大の石垣石材。」
旧二之丸東二之門(重要文化財)
「高麗門形式で、二之丸東鉄門(ひがしくろがねもん)枡形にあったものです。」
内堀
清正公石曳きの像
青松葉事件遺跡
「慶応4年(1868)正月20日、二之丸御殿向屋敷の庭前で尾張徳川家の三重臣が斬首され、いわゆる青松葉事件があった。」
二之丸広場から名勝二之丸庭園へ
「元和年間(1615~23)二之丸御殿の造営にともなって同御殿の北側に設けられた庭園です。享保年間(1716~36)以降、たびたび改修され、枯山水回遊式庭園に改められました。」
庭園案内図
那古野城跡
南池
二之丸東庭園
石垣の刻印(刻紋)
『城内の石垣には多種多様の記号を刻んだ石があります。これは石垣の築造を命じられた諸大名が、他大名と区別するために刻んだ「目じるし」です。』
お疲れ様でした。
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