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鴨田天満宮と大樹寺・岡崎市

2018-05-25 22:19:24 | 愛知
2018年5月23日に愛知観光で鴨田天満宮と大樹寺にお参りしました。
鴨田天満宮
愛知県岡崎市鴨田町北浦56
狛犬の角がありとても可愛い表情です。









拝殿









大樹寺
『浄土宗の寺院で、山号は成道山。応仁元年(1467)8月23日、井田野の合戦で多くの戦死者が出て悪疫が流行したので松平親忠公は勢誉愚底上人に帰依して、敵味方の別なく千人塚をつくって葬った。その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念仏者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。それ以来、大樹寺は、松平家徳川家の菩提寺として一千石近い禄を受け、大樹公寺と称し、20有余の末寺を持つ東海の名刹となった。現在でも岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・山門・本堂は南北一直線上にある。本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。松平第9代の家康公は19歳の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室証人はこれをとどめ、「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念仏の教えの尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念仏者となり、障がいこの「八文字」を座右の銘とした。この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、太刀夢想の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮闘し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公は、この貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の扁額は後奈良天皇の宸筆である。西方に見ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平清康公の建立。本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年(1857)、十三代将軍家定公の時に債権された。』



愛知県岡崎市鴨田町字広元5-1
map
三門(愛知県指定有形文化財)













鐘楼(愛知県指定有形文化財)





手水舎



本堂(岡崎市指定文化財)
「桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺。安政2年(1855)の火災で三門、総門、裏門、鐘楼、多宝塔、開山堂などを除いて伽藍を焼失するが、安政4年(1857)やや規模を縮小して再建されました。この本堂は、外陣が方丈のように三区分するもの、さらに凹字型のものの、二つの形式の要素を取り入れているのが特徴です。」









開山堂(岡崎市指定文化財)
「桁行三間、梁間三間、宝形造、桟瓦葺。内部はひとつの空間となっており、背面に半間幅の箱仏壇を一面に設けています。天井は各格子てんじょうで、床は畳敷となっています。屋根のちょうじょうには露盤・宝珠を上げています。建立年代は不明ですが、木鼻・実肘木などの絵様や彫刻から江戸時代前半と考えられています。」



多宝塔(重要文化財)
「室町後期の天文4年(1535)建築、三間多宝塔。多宝塔は仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。この寺に残る中世建築の唯一のものである。松平七代清康により天文4年(1535)に建立された。下層は方桟間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の塔身を立て、四手先で軒をささえる。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日逗子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。この多宝塔は上下層の釣り合いもよく、蟇股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風で丁寧に作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。」





守護神の豊国稲荷

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