回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

rêve de bonheur

2020年07月06日 12時53分58秒 | 日記

ロンドンに戻って間もなく、透けて見えるほど薄いエアメール専用の便箋に細かい文字で書かれた手紙を受け取った。改めてお見舞いへのお礼と、ルーベンス展では素晴らしい作品が展示されていて感激したこと。それから、問わず語りに、山口県萩の近くの旧家の生まれで五人姉妹の大家族、大黒柱や箱階段のある大きな家で育った、そこは趣はあったが暗かったという記憶やその後大学教授の親の転勤によって上京したこと、などが柔らかな字体で書き綴られていた。もし、萩や津和野に来ることでもあれば案内したい、そして終わりに、いつかヨーロッパの美術館の話などをする機会があればと思っている、と結ばれていた。

この丁寧な礼状を受け取って感じたのは、これまでのことにひどく驚いたり、大変迷惑だとは思っていないだろうということだ。しかし、これは礼状以上のものではない。自分の曽祖父は山口県(長州)の出身であり、単なる偶然とはいえ、共通するものを見つけたようで親しみを覚えた。ただ、自分自身は山口県を訪れたことは一度もないし、いまでは知っている血縁もいない。いつか山口県に行くことがあれば、とか、機会があれば美術館の話でも、と言うようなこと以外に、その時は書くべきことを見つからなかった。ありそうにないことを書き綴ることは、いくら儀礼的なものと言っても出来ない。そんな終わりのないやり取りをするわけにはいかないと思い、どうしても筆が渋ってしまった。そう逡巡しているうちに時間が経って、ついに返事を出す時機を逸してしまった。

その後、こちらも家族のことや、4度の転勤があるなど仕事が多忙を極めていたこともあって、このことを思い出すこともなかった。そして、バーゼルで会ってから数年後の正月、年賀状の束の中混じって封書が一つ入っていた。開くと中に二つ折りの年賀状が。

そこには、新年のあいさつに続いて、前年の11月に結婚、しかし、夫と前妻との間の泥沼のような訴訟に巻き込まれて心身共に疲れ果て、山梨に持っている自分のアトリエと実家で過ごしている。離婚問題はもう片付いているという夫の言葉を信じた自分が馬鹿だったと思うが、文学部卒で法律に暗いのでこういうことになってしまった。今思えば、ヨーロッパに行っていたころは楽しかった。人生最良の日々だった、と。最後は一行は、これまでは一度も使われたことのない「お元気で」という言葉だった。

この年賀状を何度読み返してみても、返事になりそうな文章を絞り出すことはできなかった。また、最後の一言も、返事を書くことをためらわせる強い響きがある。そして、返事がないことに全く驚きはしないだろう、と。結局この人と会ったのは言葉を交わしたあの一度だけ。二度と会うことのなかった人の一人。人との出会いとはこういったものかもしれない。これまでいくつか同じことを繰り返してきたようにも思う。今振り返れば無数の選択肢があった。今になれば何とでも言えるだろう。しかし、確かなことは、自分を責めても何にもならない、という事だ。

かすかに記憶にあるのは、初夏のスイス、駅舎のひさしの下でまぶしそうな目で見送ってくれたどことなく寂しげな姿だ。自分は歳をとったのに、その姿は歳をとらない。その人が見た自分もまた、歳をとることはない。いずれもそこで止まったようなものだ。

ルノアールの”Portrait of Mme G.Bernheim”には、どこかにこの人の面影と共通するものを宿しているように思う。1901年に描かれた、抑制された色調と繊細な描写のこの肖像画はルノアールの画風の転機を示すもので、その時期の作風は”rêve de bonheur”とも、”Eternal feminin”とも評される。ただ、ルノアールの作品の古典主義は彼の死後になってようやく認められた。

コメント (4)
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