最初は意識しないが、些細な出来事から次々と記憶がベールを一枚一枚剝いていくように蘇ってくることがある。昨日ビデオ会議をした現在チリにいる友人(なぜ今サンチアゴにいるかは昨日のブログの通り)について、思い出したこと。
チリで生まれ、もちろんスペイン語が母国語だが、10代でアメリカに移住し、以来ハーバード大学を卒業後フランス、ベルギーで仕事をして最後にイギリスに来た。ちょうどその時、自分の働いていた部署でスペイン語とフランス語に堪能な幹部社員を募集していたところ彼が応募してきた。最初に会った時からその錚々たる経歴に加え、落ち着いて柔らかな物腰とユーモアのセンスが他の候補者を圧倒していたので、若干予算をオーバーしていたもののこちらからオファーをしてきてもらったという経緯がある。その後担当してもらったスペイン語圏の相手先は、たとえそれが政府の高官であっても全く引けを取らず、対等に話の出来る関係をすぐに築きあげるという特技ともいえる力を持っていた。相手を引き付ける何かを持っていたのだろう。
自分がロンドンを離れた後、後任との間で人事上の軋轢があり、彼は定年を待たずに早期退職してしまった。以来、悠々自適の生活をしている。ずっと独身を貫いているが、一度彼がちょっとした手術のためしばらく入院したことがあった。その時、彼には付き合っていた親しい女性がいた。歳は少し離れていたが、若くて美しい女性で、年齢差を除けばお似合い、という感じだった。入院していたテムズ川沿いの大きな病院の個室にお見舞いに行った時、「彼女がお見舞いに来てくれるのを楽しみにしている」と言っていた。しかし、その後、他の同僚がお見舞いに行ったがその時もその彼女はまだ姿を現わしていなかった。無事完治して彼は退院したのだが、結局彼女は見舞いにくることはなかった。そしてそのあと、関係が切れてしまった、と聞いた。
彼の落胆ぶりは相当なものだったろう。しかし、彼は恨みがましいことは何もいわなかった。多分彼女にも事情があったのだろう、と静かに言っていたのが記憶に残っている。その後も何人か女友達がいたようだが結婚と言うような話は聞いたことがない。それで懲りたのか、あるいはもともと独身主義者なのか、ロンドンの中心に近い瀟洒なタウンハウスに住んでいていつでも家族を持てる状態だったのだが。
スペイン語が母国語であるが、英語は勿論フランス語、イタリア語も完璧に話す。ハーバードを卒業するほどの知力からすればいとも簡単なことなのか。すでに彼の両親は他界しており本人はロンドンに骨を埋める覚悟のようだ。彼から漂ってくる雰囲気はロンドンのそれと言うよりはパリのように思える。それはフランス語を完璧に話すせいなのか、彼に言わせるとスペイン語とフランス語やイタリア語は基本どこかに共通するものがありそれほど難しくないというが・・・彼にはイギリス人とは違う、人生を楽しむ力を感じる。音楽や美術に対する造詣も深い。そして、競馬や骨董にも。ふとした仕草や、彼の話に出てくる比喩は、イギリス人にはないものを感じる時がある。彼のこれまでの人生にはつらいことも多かったのだろうが、決して虚無的にならず、そういった辛苦さえもをうまく呑み込んで生きているのがわかる。かれは独身でどこへでも身軽に動いてゆく。たぶんもう結婚することはないだろう。彼と(彼のその時のガールフレンドも一緒に)アスコットの競馬場に行ったことも楽しい思い出だ。
彼の一族の経営するチリの名門ワインで、カベルネ・ソーヴィニオン・ファウンダーズ・セレクションを。