例年、7月の第一あるいは第二土曜日に開催されるのがロンドン近郊、ケント州Maidstoneのリーズ城での野外コンサート。今年は7月11日に予定されていたが、他の大規模イベントと同様、政府の指示(ソーシャルデスタンシングと大規模集会禁止)によりキャンセルとなり、すでに入場券を購入した客には来年の7月10日に開催されるこのイベントに入場することが出来る、とHPで伝えている。
9世紀に建設された、湖に浮かぶ小島に建てられたこの城は16世紀にかの有名なヘンリー8世によって大規模な改修が施されほぼ現在の城になった。一般観光客に庭園が開放されているほか、今でも政治的に重要な会議、例えば北アイルランド和平交渉が行われる場所となるなどの役割を果たしている。堅固に守られているこの城は確かに和平交渉をするのにはふさわしい場所だ。イギリスを代表する城塞建築であるこの城はまた、夏の野外コンサートの会場としての、先駆けの一つでもある。ロンドンは緯度が高く、かつ夏時間によって1時間繰り上がっているからこの時期はいつになっても暗くならないくらい日が長い。そこで開かれるこのコンサートはいつもほぼ同じようなプログラムになっていて観客を失望させることはない。すなわち、観客が野外コンサートに期待するものをいつもきちんと提供するからである。
はじめに空軍の、第二次世界大戦で活躍したスピットファイア機による編隊が城の上をかすめ飛び、いくつかの小品の演奏の後休憩をはさんで、後半は英国人の好きなエルガーのPomp and Circumstance March 4番(「威風堂々」として知られる)からはじまり、ロイヤルフィルハーモニックオーケストラによるチャイコフスキーの「1812年(序曲)」、最後にまたエルガーのPomp and Circumstance March 1番の演奏で最高潮に達して終わる。チャイコフスキーの1812年(序曲)には客席からは少し離れた場所のあらかじめ配置してある近衛砲兵隊のカノン砲が実際に発射され(空砲)るから戦闘場面の臨場感が更に出る。このカノン砲の音はまるで空全体が一瞬硬直でもしたような、体に響くほど迫力のある音だ。
さらに花火が打ち上げられるからこれで盛り上がらないはずはない。それにしてもイギリスの夏を彩る音楽コンサートの中心に(いかに後にエルガーの曲が控えているとはいえ)、普段なら、必ずしも好意的には見ていないフランスとロシアを主題とした音楽が演奏されるのは面白い。もしかするとロシアがナポレオンを打ち負かしたことでフランスへの留飲を下げているのか。しかし、イギリスもワーテルローではウェリントンがナポレオンを打ち負かしているが、などとよけいなことを考えたりする。実際には、野外でしかできないカノン砲の実射による迫力が観客を引き付け、また砲兵隊にも活躍の場を提供するということから、この音楽が選ばれたのだろう。
このコンサートには2度行ったことがありいずれもよく記憶に残っているが、そのうちのひとつは、日本から来た知り合いの書家を案内したものだ。ロンドンに行くので出来るのなら近郊のどこかを適当に案内してほしい、と言われていたのでスケジュールを立てようとしていたら、たまたまその日にこの野外コンサートが開催されることがわかった。終日、と言うことなので、車でホテルまで迎えに行き、英国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂やチャールズ・デイッケンズゆかりの場所などケント州の旧跡をいくつか回った後、リーズ城に。日展にも入選する実力のある若手女流書家のこの人とは、それまで一度、銀座のギャラリーで開催された書道展で挨拶をしただけだった。その時は和服を着ていたのでその印象しかなかったのだが、実際に会ってみるともちろん洋服、それもこの時期なので夏向きの薄いセーターを羽織っていて和服の時の印象とは全く異なり、かなり若く見えた。
その当時のイギリスはさほど飲酒運転について厳しくなく(もちろん事故を起こしたら厳罰)、僅かならアルコールが入っていてもそれだけで摘発されることはなかった。野外の開放的な場所なので、サンドイッチとシャンペンを頼んで簡単な食事とした。そのせいか、あるいは中世の城の庭でのコンサートと言う雰囲気によるものか、少し紅潮したような横顔が、打ち上げられた花火の光に照らされてはっとするほどきれいだった。書家というから、何となく近寄り難いという勝手な先入観があったのに、ただこの時間を楽しんでいる姿に堅苦しさはなく、むしろこんなに整った顔だったのか、と思うと我にもなく少し緊張してしまった。夜8時開始のコンサートなので終わったらかなり遅くなっていた。それから、ロンドンに向かって明りの乏しい高速道路M20を1時間ほどかなりのスピードで飛ばして無事送り届けることが出来た。ともあれ、一日、ドライバー兼ガイドとして、期待には応えられたのだと思う。
コンサートのプログラム。フィナーレの花火。
ステージ越し左手後方、湖の小島に浮かぶのがリーズ城。空がまだ明るい。