フェルメールの絵の中に、まるで対のように「手紙を書く女」と「窓辺で手紙を読む女」という作品がある。これを眺めながら、自分でペン(ボールペンでも万年筆でもいい)をとって手紙を書き、郵便で送ったのはいつのことだったろうかと考えてみた。
直近で手紙を書いたのは、ほぼ1年前、大学時代からの親友の一人が肺炎で病死し、そのあと、奥様に彼の死を悼んで書き送ったものだ。これは彼の死に際しての自分の気持ちをつづったもので、宛先こそ奥様になっているが実質は彼に宛てたものだった。
意図を伝えるということであれば、紙に書く手紙もEメール(あるいはSNS)も違いはない。むしろ、迅速性などからはEメールのほうが格段に優れているだろう。事務的なものであればなおさらのことだ。さらに、Eメールであれば、漢字転換機能がついていてどんな難解な言葉も活字で打ち出される。さらに文章チェック機能を使えば、不要な繰り返しや、助詞などの誤り、文章の不整合なども防ぐことが出来るので、表現にもゆとりが生まれる。これに対して手書きの手紙では、書き損じのために書き直すことが何度もありうることは勿論、うっかりした誤字に気を付けなければならないから、辞書を引きながら書くことになって書体に不自然さがにじみ出てしまうこともある。特に画数の多い漢字などはうまく書くことが出来ないこともある。
このように手紙を書くということは、いくつかある頭と手を使う作業のうちでも難易度の高い方に分類されるだろう。手紙を書くということは文章を書く作業の中でも特に神経を使うものだ。それは、紙という物理的にも唯一無二のものとしていつまでも残るからだ。Eメールでも、紙にプリントアウトすれば同じようになりそうなものだが、それは原本とはいえない。プリントアウトするということは無数のコピーができることでもあるし、そのことは多数の相手にに一度に公開されてしまうこともありうるということだ。しかし、手紙をコピーしてもそれは複写でしかない。手紙の差出人が書いた筆圧であったり、インクそのものは、(電子的な記号にすぎないEメールとちがい)他にふたつとないものだ。
手紙の魅力(あるいは魔力)を存分に引き出したのが、18世紀のフランス、175通という膨大な数の手紙だけによる小説(書簡体小説)である、ピエール・ショデルロ・ド・ラクロの「危険な関係 Les Liaisons dangereuses 」。手紙の差出人と受取人、そこに書かれている人たちの幾つもの思惑と、陰謀の限りを尽くした密約によって幾重にも絡まった運命が悲劇的な結果へと導かれてゆく、この小説を読んだときに、手紙の持つ、とくに手紙が出されてから受け取られるまでの時差を極限まで活かした展開に舌を巻いた。もちろんフランス革命前夜の退廃した恋愛小説としての心理描写がほかに類を見ないものであることは間違いないが、手紙という舞台の上で人間がいかに踊らされるか、それも最後には決闘によって落命するという悲劇的な結末を。卓抜した心理描写と緊張感は、手紙という装置があって初めて可能になりまた、読者を魅了したのだと思う。
手紙を書いている姿、手紙を読んでいる姿を想像するのは楽しい。次に手紙を書くのはいつのことだろう。この前と同じような内容にだけはならなければいいが。
「手紙を書く女」
「窓辺で手紙を読む女」