回顧と展望

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言葉に思う

2020年10月07日 14時38分40秒 | 日記

言葉が人生をどれだけ豊かにしてくれるか、は、例えば文学に接した時に感じることが出来る。言葉があリ、文字があって、本を読めば世界中どこへでもまた、時間をさかのぼっていくこともできる。現実の生活とは切り離されて素晴らしい人生を追体験することも出来る。経済的な理由や今のようなコロナ感染防止などの理由によって実際には旅行が出来なくても、小説や映画などを通じれば世界中を旅することが出来る。あるいは古代から未来まで、時間を越えて旅することもできる。もし、言葉が無かったら、など、想像することさえ難しい。

変化するという意味では、同じ言葉でも誰が発したかで全く違う。好ましいと思う人の言葉はどれもが耳に心地よい。逆に、好ましいと思えない人、あるいは何の関心もない人の言葉は胸に響かない。そのような言葉は吹きすぎてゆく風のように一瞬にして頭から消え去ってしまう。

また、自分に自信のある時には言葉が滑らかに出てきて淀むことがない。逆に、自分していることに自信の無いとき、あるいは何か偽りのことを言おうとするときには声はかすれてぎこちなく、また、張りもない。同じ言葉なのに、話す人の心理状態によってこれほどまでに違ってくるものか、と思う。

自分に自信あるいは、言っていることに確信のある人は、たとえそれが間違っていたにしても、よくとおる声で話す。人間は間違いを犯すものなのだからもし間違っていたら、改めればよい。たとえば、日本人が話す日本語が常に正しい日本語、ということは全くない。むしろ誤って話している時の方が多いのではないか。だから相手が誤った日本語を話していたとしてもそこに言いたいことが読み取れればその誤りを指摘する必要はない。言葉は意味を通じさせる手段であって、誰かが決めた「正しい日本語」を金科玉条のごとく守らなければならないことなどない。要は、間違ったなら言い直せばよいだけである。言葉尻を捕らえる、というのは言葉ではなくてそれを話す人を貶めようという卑しい行為のことを言う。

日本語では堂々と文法や表記に誤りを犯しながらも(あるいはそれを問題にしないのに)こと外国語になると正しい外国語を正しく話さなければという強迫観念のようなものにとらわれていることが多いように思う。これは外国語(たとえば英語)が言葉としてよりも学校の成績に影響する「勉強科目」からはじまったからではないか。文法や発音(さらに、イントネーションまで)が何か絶対の正解があるような、そしてそれの誤りが、あたかも数学や科学の間違いと同じように考えられているからではないか、とさえ思ってしまう。

イギリス人の話している英語にも文法や綴りの誤りは沢山ある(女王の公式なスピーチやBBCのニュースのようなものは別として)。しかし話し言葉では意味が通じるということが何より重要だ。しばらくロンドンにいると、どの国の人が英語を話しているかは大体わかる。日本人の英語、フランス人の英語、ドイツ人の英語、東欧圏の人の英語など。それぞれが母国語の影響を受けた発音の英語になっている。もちろんその逆も然りであるが。その中ではフランス人の話す英語は何となく耳に心地よい。自分はイギリス人の女性の英語よりもフランス人の女性の英語のほうを聞いていたいと思うことがある。フランス人はフランス語なまりの英語を話すことになんのためらいもない。日本人の英語も同じはずだ。子供の頃から英国に住んで英国の教育を受け、全く流ちょうな英語を話す知人がいるが、しかし、彼の話す英語は日本人の英語。もし何か違うとすれば、彼は自分の英語に自信(あるいは確信?)を持っていることだ。自信のある人の話す言葉は説得力がある。

思えば、人間とはいつでも悲観と楽観、劣等感と優越感のいずれかにあって一つの極端からもう一つの極端へと振り子のように行き来しているものだと思う。だから同じひとの話す言葉なのに、その時その時で全く違って聞こえる。

秋のロンドン、ハイドパーク。Inverness Court Hotel滞在中は週末よくここに散歩に。

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