回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

クリムト

2020年10月18日 18時15分41秒 | 日記

世紀末、という言葉にはどこか退廃的でありながらも爛熟した美しさがあって人を惹きつけるものがある。世紀末を取り扱った文学作品は数多いが、その中でも、辻邦生の「夜ひらく」は、題名が何やら思わせぶりなこともあるが内容は19世紀末の、それぞれの国を代表するヨーロッパの大都市を舞台にした奇譚小説集でまるでサスペンス小説のように面白い。舞台になっているのはサンクトペテルブルグ、パリ、グラスゴー、ウイーン、ミラノそして各話にそれぞれに登場する「 Femme fatale」。彼女らは運命の女、というか男を破滅させる魔性の女として話を回してゆく。なお、彼女らは必ずしも生身の女性ばかりではない。因みに、イギリスの舞台がロンドンではなく、かつては商都として隆盛を極めたスコットランド最大の都市グラスゴーだというのは興味深い。グラスゴーはどっしりとした石造りの建物の多い街で、それがすすで黒光りしているあたり19世紀末頃にはさぞかし趣があったのだろうと思わせる風情を備えている。

一方、絵画で19世紀末を代表すると言えばウイーンで活躍したグスタフ・クリムト。官能と死を追求した画家ではあるが風景画にも大きな足跡を残している。クリムトの絵について感じたことはいずれ触れたいと思うが、クリムトで思い出したのは、ある上司と一緒にオーストリアに出張した時のこと。

普段その上司は豪胆、かつ、強面で知られており、何かにつけ気を付けなければならない人物だった。その彼はクリムトのファンを自認していて、ぜひ本場(?)のウイーンでクリムトの画集を買いたいと思っていた。そこで、ウイーンでの仕事が終わってロンドンに戻る前に書店に入り、相当な時間をかけて2冊の画集を見つけそれを買う事にした。いわゆる稀覯本とでも言うのだろう、片手でようやく抱えられるくらいの(まるで本当の絵でもあるかのような)大きさ。

彼はそれを手にしてうれしそうだったのだが、帰りの飛行機の中で、心配そうな顔をし始めた。1990年当時、イギリスの欧州からのお土産品には無税で持ち込める限度額(207ポンド、5万円程度)があり、それ以上の場合には申告しなければならなかった。彼は(機内誌で)熱心にこの限度額を調べ、2冊合算するとそれを越えるという可能性があるという。それで、何も買っていなかった自分に、悪いが君がこのうちの1冊を買ったことにして税関を通ってくれないか。自分は何事につけてもすぐに顔に出てしまうのでこのままでは税関で足がすくんだり視線が泳いでいらぬ嫌疑をかけられるかもしれない。君ならそういうことはないだろう、と。

単に税金の問題なのだから、心配なら申告してみればいいだけのはずだが、と思いつつも、実際自分もクリムトは関心のある画家であり、何か訊かれても答えるのに特に差しさわりはない。ただ、万一、この本の値段を訊かれるようなことがあった時のために、この本の領収書が欲しい、と言ったら、財布の中からしわくちゃになった紙切れを取り出した。換算レートでほぼ200ポンド、果たしてこんな領収書で税関が納得するか、確信はなかったが、特に脱税しようという意図があるわけではないから、別段気負いもせずに通ることができた。

税関では、ちょっと大きめのお土産を持ったビジネスマン、と言う風に見たのだろう。そして空港からの車の中で彼にその1冊を手渡し、彼はすこし大袈裟にお礼を繰り返した。その時、人は見かけによらないものだとしみじみ思ったものだ。そんなことがあってその後しばらくその上司は自分に少し遠慮がちだったのを覚えている。

そんな高額のクリムトの画集は買う気はなかった(買えなかった!)のだが、ニューヨークにいた時、クリムトの画集がBarnes & Nobleと言う書店で、9ドル98セントで売られていたので衝動買いした。随分小ぶりではあるがクリムトのほぼ全作品が網羅されている。自分にはこのくらいが丁度いい。

コメント (5)
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