たいていの人はそうではないかと思うが、自分が初めて名刺を持ったのは就職した時のこと。配属が決まってその部署に行ってみるとまず課長に紹介され、すぐに課長が課員全員に紹介してくれた。そして課長の秘書が自分の座る机のところに案内してくれた。机のカギをもらって引き出しを開けると基本的な文房具の他に緑色のセルロイドのケースに入った名刺がひと箱入れてあった。学校出たての新人だからそんなに名刺を使うことはないのだろうが、100枚が最小単位だったから、かなり厚めの名刺箱だったと思う。20枚ほどを名刺入れに入れて後は机の中に保管しておいた。課長からは、名刺は安易に配ってはいけない、何かで悪用されるかもしれないから誰に渡したかはきちんと覚えておくように、と念を押されたのが記憶に残っている。
最初に名刺を渡したのは家に戻って配属先と仕事の中身を簡単に説明した時の父にだった。そうか、と言ったくらいで特に何も言わずに受け取ってすぐに部屋に戻っていったように思う。その時既に母は他界していたから、もし母が生きていたらどんな反応を示したか、母は何事にも信心深い人だったから、少し感激した後(いつもの母の行動から判断すると)無事を祈願してまず、家にある神棚と仏壇にしばらく置いておいたのではないかと思う。一方で父は少なくとも子供の前ではあまり感情を表に出さなかった。
その部署には1年弱在籍したのだが内部での事務が殆どで(ほかのところでは、同じ組織の中でも名刺を交換したらしいが自分の所属したところは内輪での名刺交換の習慣はなかった)、使ったのは、関係先への挨拶や学生時代の友人などとお互いの名詞の交換、父の知り合いに挨拶に行った際に渡したくらいで、結局、少し余ったように思う。そして次の部署に異動になったらすぐにまた別の名刺が用意されていた。このやりかたはその後もずっと続いていた。いつの間にか、自分が部署の責任者になって、異動してくる人の準備を秘書に確認する中に、名刺が手配されているか、が初めのほうに入っていたから、この習慣と言うか重要性は自分の中にも刷り込まれていたのだろう。
いくつもの仕事が重なって余裕のないような時、何度か名刺にまつわる夢を見た。それは、重要な面談の際に名刺を忘れてしまった、あるいはどこかの書類に紛れて名刺が見つからない、といった、脂汗の浮くような状況に追い込まれるものだ。いくら名刺入れを探しても自分の名刺が出てこない、とか、前の部署の名刺を持ってきてしまったとか、いずれにしてもパニックになるには十分な場面。
そこで飛び起きてしまうのだがそのあとは目が冴えて眠れなかった、ということもあった。実際はそういうことはなかったのだが、どこか潜在意識の中にいつも失敗の恐怖感のようなものがあったのだろう。だから名刺にはいつも最大の注意をはらっていた。一度だけ、南アフリカ、ヨハネスブルグに出張中、想定外に大勢の人との名刺交換があり、ついに名刺が底をつきそうになったことがあった。その時はホテルのビズネスセンターなるところに駆け込んで大急ぎで名刺をつくってもらった。1時間ほどで出来上がった名刺は、いつもの名刺とは比べ物にならないくらい貧弱な印刷だったがそれでも名前と組織名がきちんと印刷されていたので良しとしなければならない。多分この名刺を受け取ったひとは、ずいぶん質素な名刺、と思ったに違いない。
どちらかと言うと異動の多い方だったから、自分自身の名刺もかなり数になってそのうち、過ぎた部署のことは振り返らない、などと気取ったこともあって、いつの間にか自分の名刺もすべては揃っていなくなった。特に海外転勤時には思い切って荷物の整理をしなければならなかったので、それもきちんと保管していなかった言い訳にした。
最初の名刺は父に渡したがその後は必ずしも全て父に渡したわけではない。それが、父が他界して生前使用していた机を整理しようと引き出しを開けてみたら、父の名刺の束とは別にその最初の自分の名刺をいちばん上にして、渡した名刺が全部しわひとつなく、黄ばみもせずに綺麗に保管されていた。多分誰にも触れさせずに机の引き出しにしまっていたのだろう。受け取った名刺を見ながら、部屋に戻っていった父の後姿が思い出される。