本棚が窮屈になってきたので、古い本を捨てようと思った。注文した新しい本や知人から送られてくる本、定期的に購読している本が届くたびに、隙間を見つけてあちこちに押し込んできたが、それもそろそろ限界に近づいてきたから。まずは、本棚のひとつから、もう読むこともないであろう本を選んで捨てようと思った。だが、いざ捨てるとなると、急に未練が湧いてきて、決断が鈍ってしまった。
いずれこの家も主をなくして取り壊される運命にあるし、その際には、何かしら金銭的な価値のあるものを除いて、一遍に廃棄されてしまうのだろう。経済的な価値がなく、個人の思い出につながるようなものは所詮、他人にとっては何の価値もない。自分にだけ意味があるものはセンチメンタルバリュー、情緒的価値、というものだ。こういった価値を共有することはなかなかできない。
一冊づつとりだしてみると、それがここに来たのはそれなりの事情?があったのだし、すぐに捨てなかったのは、いつか読み返すかもしれない、と思ったからだろう。本によっては買った時、読んだ時の思い出すぐに蘇ってくるものもあれば、なぜこんな本を買ったのだろう、と思うようなものもある。有名人にでもなれば、その人の手にした本、と言うことで何かの価値がでるのかもしれないが、所詮市井の人にすぎない自分のような場合にはそれは当てはまらない。
そういうことで、この作業は遅々として進まず。こうしてみると決断力に欠ける、と言われても仕方がない。結局、捨てるのは諦めて、いくつかの箱にでも詰めて家のどこかに置く事にした。時間が経てば気が変わるかもしれない。その時でも遅くはないだろう。問題の先送り、と言われればそれまでだが、やはり後で後悔したくないという気持ちが勝った。
たかが本を捨てる、と言うのでも簡単なことでは無く、勇気のいることだとしみじみ思った。何のこだわりもなく(そう見えるだけかもしれないが)、捨てることの出来る人を尊敬してしまう。おもえば、捨てる、と言う場面にはあまり遭遇したことがない。人並みに、若い頃は、振った、振られたという話が耳に入ってきた。酷い奴だ、と思ったり、慰めてやったりもした。しかし、どうも自分にははっきりした経験はない。ただ、鈍感だっただけなのかもしれないが、幸運なことに仕事の上でも上司や同僚に見捨てられた、と言った記憶はない。ひょっとすると捨てられる前に自分から身を引いていたり、あるいは仕事なら十分な予防線を張って置いたりして、捨てられるということには至らなかったのかもしれない。しかし、そうだとするとそれはそれで少し寂しくはないか?
もう一度冷静になって考えてみると書棚が窮屈になったからと言って本を捨てる、と言う発想自体が良くないのかもしれない。毎日のようにおびただしい数の書物が世に現れるがそのほとんどすべて(と言ってもいい)が最初の一瞬を除いて誰の目にも止まることなく図書館の本棚の中で長い眠りにつく、というのが現実だ。
ワシントン・アービングの「スケッチブック」の中の「文学の変転 ウエストミンスター寺院での対話」の中に、そういった本の嘆きが描かれている。どういう縁か、ここの本棚までたどり着いてのだからもう少し大事にしてあげなければ。
私はよく知っている、天上を謳うあらゆる詩人の歌は、大いなる辛苦を伴うにもかかわらず、その歌を求める人のいないことを。そして、世の中の単なる賛辞ほど軽いものはないことを。(ウイリアム・ドラモンド)