回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

捨てない

2021年02月05日 16時05分55秒 | 日記

断捨離とは、モノへの執着を捨て不要なモノを減らすことにより、生活の質の向上・心の平穏・運気向上などを得ようとする考え方のことをいう、とある。しかし、物への執着を捨てると、あるいは物が減ると生活の質が向上するのだろうか。あるいは心の平安が得られるのだろうか。運気、は何ともとらえようがないので良く分からない。

病的なものや、極端なゴミ屋敷は論外としても、近隣に迷惑をかけることもなく普通に生活しているときにことさら「モノを捨てないこと」があたかも生活の質を落とすものだといわんばかりの風潮にはいささか疑問を感じる。自分が古いものに興味があるから、ということだけではなく、そもそも文化というのはなんらかのモノによって伝えられてきたのではないだろうか、とも思うからだ。もちろん、モノを捨ててできたスペースによってその人の人生が豊かになるというのであれば何も文句を言う筋合いはないが、「捨てること」自体に意味を見出そうというのでは本末転倒のように思われる。もちろん乱雑にしてよいということではなく、整理整頓は必要だろう。しかし、使うかどうかわからないモノ、今は使えないモノでもそれは生きてきた証といえる。他人の物を捨てるのであればともかく自分のものを自分で捨てて悦に入っているというのはどうも理解しかねる・・・。

先日、近所の家に住んでいた高齢の紳士が亡くなって子供たちが相続でもしたのか、大きな屋敷と物置(倉庫、と言ってもいい)が解体され更地になったことがあった。大型の重機がバリバリと音を立てて古い頑丈な壁を壊し、家や物置の中から出てきたものを大型トラックに委細構わず載せて処分場に運んで行く。それも数台ではない規模で。このくらいの規模になると、家財道具や物置にあった古い道具などはおおまかに分別された後とにかく一緒くたにされて運ばれていった。偶然その近くを通りかかり、そこで見物していたこの家の主人と知り合いだという近所の人に話を聞いた。そこで、物置の中から出てきて処分されたものの中には古いバイクもあって、とても動きそうにはなかったですけど、そういったものまであの方は捨てずにとってあったのですね、と感心したように言っていたのを聞いて、しまったと思った。

ときどき給油に行くガソリンスタンドの所長、と言っても30代くらいだが、と雑談をしていたら、「自分は昔の古いバイクを収集している。それを時間をかけて修理して走れるようにするのが唯一・最大の趣味。もし、どこかで古い家を解体するようなことがあったら、そこには乗らなくなった古いバイクがあるかもしれないので教えて欲しい」、と言われたことがあったのを思い出したからだ。今回の場合、もうどこかの廃品業者の手に渡ってしまったか、あるいは埋め立て地に捨てられてしまったか、機転の利く別の収集家が目ざとく見つけたか、いずれにしても、時すでに遅し、どんなバイクだったのか知らないが残念なことをした。次回、近所で古い家を壊す光景を目にしたら彼に連絡してみよう。そうすれば彼がすぐにそこに駆けつけて、解体業者と話をつけてガラクタの中からバイクを見つけることができるかもしれない。

モノに対する愛着は、むしろ人生を、そして文化を豊かにするものではないか。「捨てられない症候群」に罹ってしまっているのかもしれないが、人に迷惑をかけない範囲で今自分の身の回りにあるものをできるだけ大切にしようかと思う。そして、重機が一気に建物を家具ごと壊していった光景を思い出すと、何も断捨離にこだわらなくてもナ、という気になってくる。

昨日に引き続いて(一応大切にしている)九谷焼の花瓶、これをロンドンで買ったときに骨董品屋には、この九谷、19世紀の物です、と言われたが本当かどうか・・・

コメント (2)
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