一昨日、昨日と叔母の通夜・葬儀に参列。会場の斎場では入り口でのアルコール消毒は当然のことながら、カメラのような体温測定器が設置されていてそれをパスしてから初めて入場できる。場内では常時マスク着用、喪主へのあいさつもできるだけ短くと繰り返し要請された。万一会場でコロナウイルスの集団発生でもあろうものなら、業務上は大変なことになるから神経質になるのは良く分かる。席も通常の半分くらいで、隣とは一席開けるという配置。
東本願寺派の、叔母の嫁ぎ先が檀家になっている浄土真宗の寺の住職がマスク着用で読経。少しくぐもってきこえたが、高齢の割には住職のよく通る声が印象的だった、そのあとの説教は、浄土真宗宗祖親鸞が得度を申し入れたときに詠んだという
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
の解説から始められた。これは仏教の無常観を詠った歌でありながら、文学的にも非常に優れている。信ずる宗教はさておき、亡き人を偲ぶ言葉として久しぶりに心にしみる説教だった。叔母はいささか気難しいところのある人だったが、歎異抄のいうところの「本願を信じ念仏申さば仏になる」、極楽浄土へ旅立った。
写真は古伊万里の大皿。ロンドンからストックホルムに出張中、たまたまある屋敷の所蔵品を処分しているところに出くわし、日本人だとみてこの大皿を売り込んできた。いくらでもいいから持って行ってくれ、という感じで、ずいぶん安くなったように記憶している。日本に駐在したスウェ―デンの人が持ち帰ったものだろうか。いつの時代のものかは判らない。が人間と違って、こういうものは死ぬことはない。