コロナウイルスへの心配もあり、このところ公共交通機関を使ったことがない。遠くに移動するときにはどうしても飛行機に乗らざるを得ないので、そういう時ばかりは仕方ないと思っているが、ここ数日の感染者の増加をみると、何とか代替手段を考えて長距離旅行は差し控えようと思う。不要不急の外出は控えるように、と言われるがこの不要不急の定義は全くあいまいだ。ただ、コロナウイルスの危険性を考えれば、不要不急と言うのは生命にかかわりない場合が大体それにあたるのだろうと思う。幸い、今ほとんどのところには車で移動できるから実際にはそれほど不便を感じていないのも事実だ。
公共交通機関で、記憶に残っている一つは初めて鉄道(汽車)に乗った時のことだ。多分小学校に上がる前だと思う。どういう経緯で汽車に乗ることになったのか覚えていないが、駅のホームと汽車のデッキの間にあった隙間がひどく大きく、また、その間に吸い込まれて落ちそうに思えて強い恐怖心に襲われたことだ。自分を連れてきた母親がどうしてそんなに怖がるのか理解出来ずに立ちすくんでいる自分を驚いたように見ていたのを微かに覚えている。止む無く母が抱きかかえてくれてどうにか乗り込むことが出来たのだがその時味わった恐怖は鮮明だった。もっとも、いつの間にか、ホームから跨いで汽車に乗ることには何の抵抗もなくなったのだから、あの、初めての時の恐怖心は何だったのだろうかと、今では不思議だ。おそらく、普通以上に臆病な子供だったのだろう。
これまで最も数多く利用した公共交通機関と言えば路線バス。特に高校には3年間バスで通学した。当時は今よりもバスの便数があって便利だった。それにまだ経済の高度成長期のころだったから路線も拡大を続けていた。ただ、特に通学時間帯は大変混雑していた。車内では若い者も大人もどことなく熱気があったように思う。
当時自分の乗るバス停は始発からしばらくしてからのところにあったので、乗車するころにはすでに座席(通勤電車のように向かい合っている)は全部埋まっていた。同じ時間のバスに乗ると、乗客もまた大体同じ顔触れになる。当時通っていた高校は制服があり、校章を襟につけることになっていた。制帽もあったのだがこの点はあまり厳しくなく、髪型も気になる年頃だったので普段は被らずに通学していたように思う。このバスは停留所を重ねてゆくたびに混雑がひどくなる。都心の終点で一斉に降りるので途中は混雑する一方になる。学校には終点よりいくつか前の停留所で降りなければならないので、降り口から遠く離れては降りるのに難儀する。そのあたりを考えながら、バスの中のどの位置に立つかを決めていたものだ。
3年生になったある日、その日は雨が降っていたせいか徒歩通学・通勤の人もバスに乗ってきて、特に混んでいた。通学用の鞄を持っていると、つい、座っている乗客の目の前に突き出すようなことになる。そのとき、自分の前に座っていた若い女性が鞄に手を触れ、「持ちましょうか?」と言って自分の膝の上に載せてくれた。とっさに言葉が出なかったがかなりすし詰め状態で、また、降りるバス停まではまだしばらくあったので、うなずいて手を離した。彼女は両手で鞄の両側をつかんで支えてくれていた。上からだが、よく見ると自分の降りる停留所から3つほど先にある女子大のバッジを付けている。そして、彼女はこちらの学校のことも良く知っているに違いなかった。いよいよ自分の降りるバス停が近づいたので、お礼をいって鞄を受け取り出口に向かった。その時は伏し目がちで地味な感じのする人だったのが記憶に残った。今の女子大生なら誰でも綺麗に化粧をしているようだが、その当時は素顔のままの人が多かったように思う。
その後、朝の通学時にバスに乗ると大体その人も乗っていた。そうして1年間、同じような混雑時には何度か鞄を持ってもらった。彼女は自然と手を出してきて、しかし、いつも顔は正面を向いているのだが視線を落としていて目を合わせることはなかった。3月の中ほどになって、当時は自分の高校もふくめ、卒業式の日が新聞の記事になっていて、だれでも知ることが出来た。当時のその高校の卒業式は、国立大学の合格発表の数日前に日程が組まれていた。卒業生の多くが受験する国立大学の合否が判明した後では、クラスメートが顔をあわせるのに気まずいことがあるとでも思ったのだろうか。
卒業式の日、いつもと同じバスに乗るとその人もいつもと同じ席に座っていた。驚いたことに、髪型こそいつもと同じだったが、しっかりと化粧をしていて、別人のように輝いているように見えた。その日はいつもより混んでいたので、乗客の流れに押されるようにして奥に入ってゆくと彼女がさりげなく鞄を持ってくれた。このバスに乗るのもこれが最後だろうと思ってよくみると、まつ毛が長くて黒目の大きな綺麗な人だった。微かに香水のにおいもしたように思う。いつもの通り軽く会釈してからバス停でおりて卒業式に向かった。
卒業式の後はもう授業はなく、その時間のバスにも乗らなくなった。その人がどこから乗ってきたのかとうとうわからなかった。仮に始発からだとしても自分の家からそんなに離れているはずもないのだが、バス以外ではどこでも見かけたことがない。一度だけ、バスの中でその人がノートを拡げていて、その表紙に名前が書かれていたのが分かったが、そんなものを見るのは気が咎めて記憶することが出来なかった。
60年代アメリカで作出されたブライダルピンクは切り花として一世を風靡したもの。