回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

最新NY事情

2020年07月26日 14時38分16秒 | 日記

ニューヨークで旅行関係の仕事をしている知人から、同人が作成しYoutubeに投稿した、最新のNY案内が送られてきた。

ニューヨークはコロナウイルスの惨禍こそ峠を越したものの、その傷跡はいたるところに残っていて、観光面ではいまだ全面的に停止状態にある。この動画はそんなニューヨークのマンハッタン島を一周しながら、20分ほどの旅行ガイドの役割を果たしている。そこには、コロナウイルスの影響でほぼ無人となっている中心街の様子や最近の白人警官による黒人の圧殺事件を契機としたBlack Lives Matter運動、暴動の痕跡、さらには19年前の同時多発テロまで、今のニューヨークがコンパクトに俯瞰できるようになっている。残念ながら、画像は一部不鮮明なところがあるが、日本語のわかりやすい解説がそれを補って余りあると思う。

ニューヨークの今についての何かの参考になるかもしれない。Youtubeの画面右下「チャンネル登録」のボタンを押して登録すれば、コロナでほぼ壊滅的な影響を受けているニューヨークの旅行業への支援にもなる(もちろん、無料でありかつ何らの義務を負うものではない)。自分もニューヨークにはかつて5年ほど駐在したことがある。その時に同時多発テロ(いわゆる911)に遭遇した。その跡地に今は真新しいビルが建てられているのを見るのも感慨が深い。

https://www.youtube.com/watch?v=Kbb6LLwcLYQ&t=76s

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海外旅行の夢

2020年07月26日 11時38分27秒 | 日記

仕事上の知り合いとメールのやり取りをしていたら、彼女曰く、今年の2月以降一切海外出張がなく、やむなく国内での仕事に専念している。今になって思えば、その時は厳しく辛く感じたが、海外出張とは日常の細かな悩みから一時的にせよ解放されて精神的にはリフレッシュできる機会だったのだ、と。特に重要な案件がある時にはそれに集中と言うのか、夢中になっているので時差も寝食も忘れるくらいだったから、日本の事に煩わされずに済んだ。そういうことが全く無くなって半年過ぎると、何か生活のリズムが変調をきたしてきたようにも思えて、最近は海外出張している夢を見ることすらある、と嘆いている。

世界中が感染封じ込めのために往来を規制していて、一部の旅行業界を除けばそれをやむを得ないものと受け入れているから、今、海外に行っても歓迎されないだろう。むしろ、どの国も自国の感染拡大防止に躍起になっているところでありそこへの外国人の入国は歓迎されないどころか、拒否される可能性のほうが高いのではないか。

こんな話を聞きながら、人も羨むような、世界の主要な観光地を総なめにするほどの多くの旅をした名画があることを思い出した。16世紀のベネチアの画家パオロ・ヴェロネーゼ(出身地のヴェローナにちなんでこう呼ばれる)は数多くの絵を残し後世の画家に影響を与えた。その寓意に富む名画は時の王侯貴族に愛され、そして彼らの盛衰とともに世界を旅している。ニューヨークのフリックコレクションが所蔵している絵画の中では2番目に大きなパオロ・ヴェロネーゼの絵「賢明(知恵)と力の寓意 Allegory of Wisdom and Strength」は、16世紀に最初に献呈された神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の住むプラハからストックホルム、ローマ、パリ、ロンドンを経て今はニューヨークにあるという、つまり4世紀の間に6か所を旅していることになる。

この絵に描かれている右手のライオンの毛皮を纏ったのは力の象徴であるヘラクラス、足元に背中に羽の生えているのは愛の象徴であるキューピッド。しかしこの絵の主人公は、豪華な衣装に身を包んだ半裸の、額に太陽の光を浴びている、賢明(知恵)の神(Divine of wisdom)である。

この力の象徴ヘラクレスはうつむき気味で弱弱しくさえ見える。そして愛の象徴キューピッドは足元で休んでいるようで手持無沙汰だ。この絵の意味するところは、「すべては空しい、しかし、賢明(知恵)の神はすべてに勝る、力よりも、愛よりも」ということで、賢明さこそは人間が持つべき最上の徳である、と言うことが、その時々の権力者・有力者を引き付けた、あるいはその権威付けに使われたということかもしれない。もちろん、そういった寓意もさることながら高さ215㎝、幅167㎝の油絵は見る者を圧倒する。パオロ・ヴェロネーゼには劇的で色彩に満ちた精緻かつ物語性豊かな連作絵画がいくつかあり、そのいずれもが、人間の真理を物語っているものだ。

パオロ・ヴェロネーゼがこの絵に込めたように、やはり力よりも愛よりも賢明さが最も大切なのかもしれない。自由に動くことの出来ない今だからこそ、せいぜい賢明さに磨きをかけておかなければ。

「賢明と力の寓意 Allegory of Wisdom and Strength」

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TV映り

2020年07月25日 14時52分02秒 | 日記

コロナウイルス感染拡大防止のために世界的に在宅勤務やリモート営業が増え、Zoomなどを利用したTV会議やTV 通信が一層一般化しつつあるなかで、新たな問題が浮上していると、英紙インデペンデントが伝えている。イギリスの労働法関係の専門会社が調査したところ、3分の一以上の女性社員がTV 会議に出席するにあたって「入念に化粧をすることや髪形を整えること」を要求され、27%が「よりセクシーか挑発的な服を着ること」を要求された、と。

こういう要求をした理由について、41%の上司が「新たな商売を獲得するの役立つから」、40%の雇用者は「チームとして仕事をするのに綺麗に見えるのは重要だ」、33%が「お客を喜ばせるために必要だから」と答えている、という。

これに対して女性は40%が「男性は以前のままであるのに対して女性を対象にした差別だと感じる」、一方で25%が「将来の昇進に悪影響があるのではと恐れて、化粧により多くの時間を割くようになった」、そして60%の女性が「人事部に報告することを躊躇っている」、と。

この調査結果を踏まえ、セクシャルハラスメント防止や、職場での男女平等を要求している団体からは、コロナ危機に便乗した悪質・露骨な差別であり直ちにやめさせなければならない、という意見が出されている。さらに、今までセクシャルハラスメント防止や差別撤廃の研修をしてきたにもかかわらずこういうことが起きているのは、結局は男性の上司は口先だけでその本質は何ら変わっていないことの証左、と言うものまである。

この調査結果に対してイギリスでの反応は様々だ。男女双方から、とんでもない話であり、こういうことだからもっと規制や教育を徹底しなければならない、あるいはそんな要求があったら公にしてやればよい、というものがある。一方、セクシーという性的なアピールを求めるのは論外であるが、そもそもそんな上司が今時これほどいるとは考えられない、とか、さらに、何かあるとすぐに女性差別に結び付けているのではないか、男性にも当然ながら何を着るか(まさかだらしない格好でTV 会議に出ることは許されないはず)、顔や髪を整えるというのは同じであり、外見を整えるように言われるのは必ずしも性差別ではない、など。

たしかに、実際に会っているわけではないから、画面での印象がより重要になる。すなわち、どう見えるか、と言うのは今以上に重要になるだろう。よく見られたい、と言う自然な思いがある一方で、それを他人に強制されたり、ましてやそれを売り物にすることや、勤務評定に結び付けれれるというのは納得できない、と言うことは当然だ。この問題は決して簡単ではない。そもそも、在宅勤務と言うのは個人の私的な空間と仕事と言う公的な活動が交差するものでもあり、今までと同じ発想で良いのかということがある。女性の場合、在宅勤務では、人によって家事や育児といった職場にはない使命が同時に課されていることもある。そういったことは、会社が「TVで魅力的に見える」ことを要求することの是非を判断する時に十分考慮されなければならない。

また、業務の内容にもよるだろう。消費者が商品の購入を決定する場合、その商品の性能によるものであれば、相手がどのように見えるかは関係ないだろうが、商品に大きな差がない場合、相手にどのような印象を与えるか、信頼感や清潔感と言ったものが重要になることもある。

この、TV映りをどうするのかは、男女平等や女性の権利保護といった観点から今後 さまざまな見方や考え方が出てくるだろう。これらの問題ではアメリカが常に先鋭的だと思う。自分もアメリカの現地法人の責任者を5年ほど務めたが、この問題は常に頭の中に置いておかなければならなかった。形式上、組織の責任者として何度か訴えられ、それらはすべて根拠のないものだったが、一つ間違えばどのような結果になるかわからないという不気味なものだった。アメリカは訴訟社会だからすぐ弁護士が出てくる。そうなったらいわゆる「チキンゲーム」。どちらか弱気になったものが負ける。確かなことはこの問題では自分一人で解決しようと思わないことだった。自分になんら後ろめたいことがない以上、組織が対応する。人事部にはハラスメントや差別の問題を扱う専門の人がいて、その人にまかせることだった。形式上責任者が訴訟の相手にされて、自分宛てに召喚状がくるのだが、何度か裁判所の入り口までもつれた。まさに薄氷を踏むような5年間だった。

今の時代、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 などと簡単に言ってはいけないのだろうが百合の花には罪はない。

 

 

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公共交通機関

2020年07月24日 17時03分50秒 | 日記

コロナウイルスへの心配もあり、このところ公共交通機関を使ったことがない。遠くに移動するときにはどうしても飛行機に乗らざるを得ないので、そういう時ばかりは仕方ないと思っているが、ここ数日の感染者の増加をみると、何とか代替手段を考えて長距離旅行は差し控えようと思う。不要不急の外出は控えるように、と言われるがこの不要不急の定義は全くあいまいだ。ただ、コロナウイルスの危険性を考えれば、不要不急と言うのは生命にかかわりない場合が大体それにあたるのだろうと思う。幸い、今ほとんどのところには車で移動できるから実際にはそれほど不便を感じていないのも事実だ。

公共交通機関で、記憶に残っている一つは初めて鉄道(汽車)に乗った時のことだ。多分小学校に上がる前だと思う。どういう経緯で汽車に乗ることになったのか覚えていないが、駅のホームと汽車のデッキの間にあった隙間がひどく大きく、また、その間に吸い込まれて落ちそうに思えて強い恐怖心に襲われたことだ。自分を連れてきた母親がどうしてそんなに怖がるのか理解出来ずに立ちすくんでいる自分を驚いたように見ていたのを微かに覚えている。止む無く母が抱きかかえてくれてどうにか乗り込むことが出来たのだがその時味わった恐怖は鮮明だった。もっとも、いつの間にか、ホームから跨いで汽車に乗ることには何の抵抗もなくなったのだから、あの、初めての時の恐怖心は何だったのだろうかと、今では不思議だ。おそらく、普通以上に臆病な子供だったのだろう。

これまで最も数多く利用した公共交通機関と言えば路線バス。特に高校には3年間バスで通学した。当時は今よりもバスの便数があって便利だった。それにまだ経済の高度成長期のころだったから路線も拡大を続けていた。ただ、特に通学時間帯は大変混雑していた。車内では若い者も大人もどことなく熱気があったように思う。

当時自分の乗るバス停は始発からしばらくしてからのところにあったので、乗車するころにはすでに座席(通勤電車のように向かい合っている)は全部埋まっていた。同じ時間のバスに乗ると、乗客もまた大体同じ顔触れになる。当時通っていた高校は制服があり、校章を襟につけることになっていた。制帽もあったのだがこの点はあまり厳しくなく、髪型も気になる年頃だったので普段は被らずに通学していたように思う。このバスは停留所を重ねてゆくたびに混雑がひどくなる。都心の終点で一斉に降りるので途中は混雑する一方になる。学校には終点よりいくつか前の停留所で降りなければならないので、降り口から遠く離れては降りるのに難儀する。そのあたりを考えながら、バスの中のどの位置に立つかを決めていたものだ。

3年生になったある日、その日は雨が降っていたせいか徒歩通学・通勤の人もバスに乗ってきて、特に混んでいた。通学用の鞄を持っていると、つい、座っている乗客の目の前に突き出すようなことになる。そのとき、自分の前に座っていた若い女性が鞄に手を触れ、「持ちましょうか?」と言って自分の膝の上に載せてくれた。とっさに言葉が出なかったがかなりすし詰め状態で、また、降りるバス停まではまだしばらくあったので、うなずいて手を離した。彼女は両手で鞄の両側をつかんで支えてくれていた。上からだが、よく見ると自分の降りる停留所から3つほど先にある女子大のバッジを付けている。そして、彼女はこちらの学校のことも良く知っているに違いなかった。いよいよ自分の降りるバス停が近づいたので、お礼をいって鞄を受け取り出口に向かった。その時は伏し目がちで地味な感じのする人だったのが記憶に残った。今の女子大生なら誰でも綺麗に化粧をしているようだが、その当時は素顔のままの人が多かったように思う。

その後、朝の通学時にバスに乗ると大体その人も乗っていた。そうして1年間、同じような混雑時には何度か鞄を持ってもらった。彼女は自然と手を出してきて、しかし、いつも顔は正面を向いているのだが視線を落としていて目を合わせることはなかった。3月の中ほどになって、当時は自分の高校もふくめ、卒業式の日が新聞の記事になっていて、だれでも知ることが出来た。当時のその高校の卒業式は、国立大学の合格発表の数日前に日程が組まれていた。卒業生の多くが受験する国立大学の合否が判明した後では、クラスメートが顔をあわせるのに気まずいことがあるとでも思ったのだろうか。

卒業式の日、いつもと同じバスに乗るとその人もいつもと同じ席に座っていた。驚いたことに、髪型こそいつもと同じだったが、しっかりと化粧をしていて、別人のように輝いているように見えた。その日はいつもより混んでいたので、乗客の流れに押されるようにして奥に入ってゆくと彼女がさりげなく鞄を持ってくれた。このバスに乗るのもこれが最後だろうと思ってよくみると、まつ毛が長くて黒目の大きな綺麗な人だった。微かに香水のにおいもしたように思う。いつもの通り軽く会釈してからバス停でおりて卒業式に向かった。

卒業式の後はもう授業はなく、その時間のバスにも乗らなくなった。その人がどこから乗ってきたのかとうとうわからなかった。仮に始発からだとしても自分の家からそんなに離れているはずもないのだが、バス以外ではどこでも見かけたことがない。一度だけ、バスの中でその人がノートを拡げていて、その表紙に名前が書かれていたのが分かったが、そんなものを見るのは気が咎めて記憶することが出来なかった。

60年代アメリカで作出されたブライダルピンクは切り花として一世を風靡したもの。

 

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ノリウツギ

2020年07月23日 14時01分03秒 | 日記

家の前の公園に植えてあるノリウツギが満開になった。ガクアジサイによく似ている(アジサイ科アジサイ目なので当然と言えば当然)。その花に引き寄せられて蜂たちが群がっている。歩道に沿って何本も植えてあるこの木のそばを毎日のように散歩で通るのだが、今日のような曇りの日には白い花がむしろ生き生きとして見える。

この花の北海道での別名は「サビタ」。北海道出身で、生涯をその地で過ごした原田康子の小説『サビタの記憶』(1954年)で一躍有名になったこの白い花は北国の夏の風景によく似合う。この小説は昭和20年代、まだ20代の清新な感受性にあふれた原田の傑作短編のひとつと言えるだろう。小説にも書かれているようにその香りは本当に微かだ。公園の管理者が毎年秋には短く刈り込むのだが、いつもしっかりと花をつける。ただ、この枝はひ弱で雪の重みに耐えきれないから、冬越しのために一本ごとに繩巻に。根気のいる作業が毎年繰り返されてやっと生き延びている。

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