文藝作品というものはそれこそ星の数ほどあり、作家の数もまた数えきれない。
その中で名文と言われるものは数少ないし、名文を書くといわれる作家となるとずっと少なくなる。なかには、「××の名手」といった限定版の評価もある。(たとえば淳之介、新一など)鴎外、漱石、龍之介といった大物は別格として、評価のいくつかの切り口がある中でも内田百の名前はよく出てくるように見受けられる。 百の「名作」と言われる「ノラや」はズット以前、若い時に読んだ。両親も小生も猫好きにかけては人後に落ちないと思っているけれど、この作品には感心する、というよりもいっそあきれてしまった。なぜこれが「名作」なのか不思議だった。この作品が発表されたとき、「男子たるものがなんと女々しい」「天下の文士が世間にさらすべき事か」といった評判があったことを後日に知り、さもありなん、と納得した次第。またかなり後になって、ネタ元ではないかというものがあると知ってなお小生の中での評価が下がっていた。そのネタとは、月岡芳年である。幕末から明治にかけての錦絵の大家。妖怪絵や歴史もので有名だが、猫好きも大変なものであったことは色々な記録でわかっている。「ノラや」の中に描かれた溺愛と周章狼狽ぶりは芳年の行状記録にあるのとそっくりではないか。百は漱石山房に連なった人であるから、その周りの人を見れば彼が芳年を知らなかったことはありえないだろう。百はそれを換骨奪胎、わが身に置き換えたに過ぎないと、小生は思っている次第です。しかるに、そのことが「名文家」という評価を汚すと言っているわけではない。
昨年暮に、文庫の整理中、百の物がいくらかあって、その中、「内田百集成・間抜けの実在に関する文献」があった。表題の面白さにひかれて手元に残し読んでみた。大変面白い。小生は語彙に乏しいし、うまく表現できないのだが、普段の周りの人とのやり取りを掬い取り、平易な言葉で実にうまく纏めてあると感心した。収録されているほかの文も読んでみたけれど、特段の事件でもないことをよくまあ描けるものだなあと。一見「これなら自分にも書けそうだ」と思わせるところが「名文」たる所以かもしれない。
他のを読み進んでいくと、自分の身の回りの出来事の「報告」ばかりで、だんだん面白味は減じて、これもまた興ざめなのだが、堅からず、柔らからず、適当な漢語の配分、どこか落語の語り口にも似たところはいかにも山房の形骸に触れた人の文章かと。うーん、やはりこれは名文ということかなあ。
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