先の24日夜、正山町の日本基督教団の教会でイブの礼拝に参加しました。わが家は母が聖公会の信者で、小生は幼稚園からこの教会に馴染んできたのだけれど、大牟田の教会がなくなって、行き場がなくなってしまっていたのです。日基の教会の信者さんには知り合いが数人いて、特別な緊張がいるわけではないので参加することにした。 日基の礼拝は初めてで、細部についてはやはり聖公会とは違っていた。讃美歌の歌詞も違うような・・・。小生は洗礼を受けてはいない単なる「善意の雷同者」にすぎません。かつてある聖職者と話した時、基督教の中の宗派のどれに属するか、はどこで決めるのだろうか、というとき、「馴染み、偶然のきっかけ、出会い」です、それで十分。という話になんとなく納得してしまった覚えがある。 物ごとを決めるとき、加算法と消去法とがある。恋愛や、積極的信心は加算法、「あばたえくぼ・いわしの頭も信心から」 という塩梅。反対は「本当かな?」とか「根拠はあんのかよ」といった理屈をこねて削ってゆく方。 小生は如何! どうだろうか、自分でも判別は付かない、ただ実感としていえることはお葬式に参列した際に仏式の葬儀のつまらなさ、形骸ブリには我慢がならないと思う、これははっきりしています。、輪廻だの来世、浄土・地獄等々、丸で空虚なことで付き合い切れませんね。ただその場に雇われてきただけの僧侶が、訳の分からないお経をなお解かりにくく節をつけて唸る、死者との関わりもない司式のどこが有り難いのか理解できないのですが、どんなもんでしょう。さればこそ基督教か、と問われるとこれもまた考えることあって、全面受け入れとは言い難い。そこがすでに頭でっかちのいいぶんで 信心ではない といわれるところです。わかっちゃいるけど 踏み込めない。 我々が享受している西洋文明の根っこは基督教、その科学の行きつく先が原子力他の最先端科学、その限界といえる様子が見え隠れしている(と思っている)時になお基督教か? また無教会派という存在を知ってなお教団という組織に馴染めるか? 小生は「善意の雷同者」という言葉が好きな 「さまよえる子羊」です。
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