閑寂肆独白

ひまでさびしい本屋のひとりごと

音楽再発見の日々

2024-04-11 07:59:49 | 日記

  このところ「眼を通す」本・活字は相変わらず多いけれども大して本を読んでいない。

 一つには「眼」の具合である。老眼の進行具合とレンズがうまく合っていないのか、近場の物を見るのが 何とはなしに具合が悪い。  もう一つ原因(?)がある。 楽器を弾くのをやめてからは 夕食の後「ヒマ」になる、そして飲酒を制限された、となると読書の機会が増える、ハズであった。しかしそうはならなかったのがFM放送である。夜7時半頃からほぼ毎日あるクラシック音楽の番組を聞くようになった。そもそもBGM程度でさえその曲が気になる質なのだが、この時間の演奏はまず「聞き流し」ができない。譜面を用意してかじりつくわけではないけれど、「気になる・耳が離れない」 当然ながら「本を読む」ことはできない。場合によっては放送が終わっても余韻といえば聞こえがよいが、気になってそのことを調べたり、と色々。 おかげでこれまであまり聞かなかったピアノ・声楽、それに現代曲等も聞くようになって新発見多数。要するにこれまでいかに音楽を知らずに過ごしてきたかを思い知らされる時間になってしまったのだ。 音楽の知識が増えてもこの歳の小生になんの足しにもならないのになあ、と思いながらも止められない。 それぞれの演奏への感想は当然色々だけれど、時々「解説・司会者の感想」に本の場合と同じく「ちょっと変?」というのにも出くわすけれど録音して云々というまでの事もなし。  好みというのはかわるのものだが現在言えるのは「マーラー・ショスタコーヴィッチ」が嫌い、ことにシンフォニーはまず聞く気にならない。ショスタコーヴィッチがピアノ演奏がかなりの腕前だったことはこのFMで知ったことだがそれにしても交響曲の「ダサい」のはどうしたことかと。指揮者・井上道義が得意としていたのは知っていて幾度かは(放送で)聞いたことがある、にもかかわらず小生にとってはホボ雑音でしかない。これは理屈ではなくあの「音数・和音・響き」が小生の耳には耐えがたい。

 ところで吾輩は世間付き合いというものが上手とは言えなく、この街に友人と言えるは少なく、それも親しいというのは殆どいない。いても「本・歴史」に関して語り合える、まして音楽については皆無で、全く話相手がいない。もっぱら読書やこのような「日記風・メモ」を書いたり、たまには「投稿」したり。この街の音楽事情については絶望的、現在進行中でまだ生々しいので腹の中に収めているが、あきらめが先に立っている。美術館も同じ、「箱」があっても文化とは違うのだ。

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