2015.2.23(月)曇り
四條畷市の飯盛山北西にある小路北町、小路南町、小路交差点などが河内ではないかと書いたが、その理由は福知山市三和町草山の小路谷(こうじのたに)を訪れたことによる。この谷の奥にお堂があり、片眼の行者が祀られているという。草山という地名に金属の臭いをかぎつけ、調べていた矢先である。片眼というのは製鉄に関わりがあるというのはよく言われていることで、天目一箇神(あめのまひとつがみ)を始め、鎌倉権五郎景正まで片眼ということで金属関係者に祀られている。
数年前のこの日は時間も無かったので、小路谷の入口で終わったが、この小路という地名には不思議な感を抱いた。小路というのはそのとおり小さな道で、草山の小路も小さな道なのだが、小さな道といえば村中小さな道で、特段この道を小路と名付ける必要は無いのである。この、現在はお堂の先で道が途絶えているようだが、かつては大内(おおち)に抜ける峠があったそうだ。(郷土資料中巻郷村記)
三和町草山小路谷の入口
地理院地図で見ると小路の地形が河内地形であることがすぐに解る。河内の意味は川谷の平地と言うことだが、特に上流部で平地がなぜできるかというと、流路に狭隘部が出来流れが悪くなる、その上部に土砂の堆積がおこり平地となる。上高地でも小河内でも地形図を見れば一目瞭然である。大唐内についても同様で、トレーシーさんのアトリエの下から老富会館まで大唐内谷は急に萎むのである。この狭隘部分こそが大唐内の豊かな田畑を作り上げたのだろう。大唐内に広畑という小字があり、どうやら大唐内の最も広がったところにあるようだ、将にそのままの地名だと思うのだが。
聖神社、ここから奥が広い耕地なのだが、現在は休耕田、灌木などが多い。
またこういうところのように、狭隘で曲がりくねった道を抜け広がった山里に出会うと誰でも桃源郷の想いを受ける。上高地など満員のバスに揺られて入った場合は何も感じないだろうけど、冬期のように島々から歩いて入った時などは将に桃源郷という感がする。上林谷について何鹿郡誌が桃源郷と称するのはそういう地形が大きな理由かもしれない。
さて三和町草山の小路のことであるが、府道から入って300mあたりに大変狭隘になっているところがある。ここが河内地形を形作る重要な地形で、そこから上流は緩やかな蛇行の脇に豊かな土砂が堆積しているのだと思う。規模的には大唐内よりも小さいが、地形としては同一の条件なので小路は河内のことだと判断するのである。
なお河内は、カウチ、カッチ、コーチ、ゴーチ、コチなどと訛化し、甲地、甲子、河地、古内など様々な文字で表されている。ただし、唐内、小路と表している説は他に見たことがなく、わたしの説が初かもしれない。つづく
【作業日誌 2/23】店先バリアフリー(床張り)
【今日のじょん】先日からお知らせしている捨て芋がすっかり無くなっている。果たして獣が食ったのか、誰かが片付けたのか?ミステリーではある。