2016.9.28(水)雨
「日本の地名」60の謎の地名を追って 筒井功著 河出書房新社2011年1月初版 綾部図書館借本
地名に関する本は数多あり、瞬く間に本棚が一杯になってしまった。中には怪しげな内容のものもあり、なぜそんなものがまかり通るのかといえば、地名についてはどんな解釈をしても確証は得られないからだ。
「もちろん、地名の解釈に確証を求めるのは酷だといえる。ほとんどの地名がいつごろ、どんな動機で名付けられたかを示す資料など残っていないので、おおかたは比較や傍証にもとづく合理的推測をもって、よしとするほかないからである。」(P173)
「その中で地名研究は、どうも影がうすいようである。労の多い割に、確かな手ごたえの成果が得にくいことが一因かもしれない。実際、地名の解釈には逃げ水のようなところがある。一度はたしかにつかんだと思っていても、ふと見なおしたら掌中に何も残っていないような気になることが珍しくない。ときには、これまでの一切が幻想にすぎないのではないかと不安にかられることもある。」(P184)
実はこのような思いはわたしも常に抱いていて、読んでいてドキリとした。筒井氏が地名研究に如何に真摯に取り組んでおられるかということがひしと伝わる。
氏の地名解釈の基本は古語であるとされているようで、弥生時代の日本語と現代日本語は同形の言語だろうと推測されている。わたしも同感で、日本の地名は基本的に日本語で解釈すべきと考える。アイヌ語、朝鮮語、その他の言語に発する地名もいくつかあるのだが、それらを提唱する研究者の欠点はすべての地名をそれで解釈しようとしていることだ。ましてやほとんど残っていないという古代朝鮮語やレプチャ語なんて聞いたことも無いような言語で解釈しようというのは無理があろうというものだ。
本書に登場する気になる地名は、生野、下呂、石風呂、古氷、六呂師、設楽、斑鳩、歌、桜、姥ヶ懐、矢作、市ヶ谷、沓掛である。中には結論の出ていないものもあるが、従来の説とは随分違うものもある。わたしとしても納得のいくものもいかないものも、判断のしようがないものもある。受け入れがたいのが斑鳩(いかるが)である。「この地名が付いたころ、そのあたりににはイカル(鳥)が群れ飛んでいたのだろう。」(P118)これは失望である。
嬉しいのは市、一(いち)に関する考察である。市については従来説の多くが市場という解釈で、一については一番目という解釈が多い。氏は市についても市が立つような場所では無いところも多く、一についても山中の寂しいところが多く、二、三とつづく地名も見当たらないと従来の説に疑問を抱いている。上林地区にも市茅野(いちかや)、市志(いちし)、一ノ瀬(いちのせ)などあるが、いづれも山間部である。氏はイチは神と人を繋ぐ人、つまりシャーマン、巫女のことではないかと説いている。これもそのまま合点するわけでもないのだけど、市、一(イチ)というどこにでもいくらでもある地名に焦点を当てられたのは他の研究者に見られない姿勢である。
「もちろん、地名の解釈に確証を求めるのは酷だといえる。ほとんどの地名がいつごろ、どんな動機で名付けられたかを示す資料など残っていないので、おおかたは比較や傍証にもとづく合理的推測をもって、よしとするほかないからである。」(P173)
「その中で地名研究は、どうも影がうすいようである。労の多い割に、確かな手ごたえの成果が得にくいことが一因かもしれない。実際、地名の解釈には逃げ水のようなところがある。一度はたしかにつかんだと思っていても、ふと見なおしたら掌中に何も残っていないような気になることが珍しくない。ときには、これまでの一切が幻想にすぎないのではないかと不安にかられることもある。」(P184)
実はこのような思いはわたしも常に抱いていて、読んでいてドキリとした。筒井氏が地名研究に如何に真摯に取り組んでおられるかということがひしと伝わる。
氏の地名解釈の基本は古語であるとされているようで、弥生時代の日本語と現代日本語は同形の言語だろうと推測されている。わたしも同感で、日本の地名は基本的に日本語で解釈すべきと考える。アイヌ語、朝鮮語、その他の言語に発する地名もいくつかあるのだが、それらを提唱する研究者の欠点はすべての地名をそれで解釈しようとしていることだ。ましてやほとんど残っていないという古代朝鮮語やレプチャ語なんて聞いたことも無いような言語で解釈しようというのは無理があろうというものだ。
本書に登場する気になる地名は、生野、下呂、石風呂、古氷、六呂師、設楽、斑鳩、歌、桜、姥ヶ懐、矢作、市ヶ谷、沓掛である。中には結論の出ていないものもあるが、従来の説とは随分違うものもある。わたしとしても納得のいくものもいかないものも、判断のしようがないものもある。受け入れがたいのが斑鳩(いかるが)である。「この地名が付いたころ、そのあたりににはイカル(鳥)が群れ飛んでいたのだろう。」(P118)これは失望である。
嬉しいのは市、一(いち)に関する考察である。市については従来説の多くが市場という解釈で、一については一番目という解釈が多い。氏は市についても市が立つような場所では無いところも多く、一についても山中の寂しいところが多く、二、三とつづく地名も見当たらないと従来の説に疑問を抱いている。上林地区にも市茅野(いちかや)、市志(いちし)、一ノ瀬(いちのせ)などあるが、いづれも山間部である。氏はイチは神と人を繋ぐ人、つまりシャーマン、巫女のことではないかと説いている。これもそのまま合点するわけでもないのだけど、市、一(イチ)というどこにでもいくらでもある地名に焦点を当てられたのは他の研究者に見られない姿勢である。