2018.4.9(月)曇り
木住峠(きずみとうげ)の命名について、舞鶴側岸谷の小字鬼住に由来するものと書いたが(2017.12.18参照)実は上林側ににも木住の地名があるのだ。これは単なる偶然だろうか?これまで巡ってきた峠の多くが越えた先の地名を指している。洞峠、坪坂峠、胡麻峠、八代峠など。また大栗峠、猪鼻峠などは峠の位置の地名そのものである。大原峠、和木峠などとお互いに目的地の地名を呼び合った峠もある。ところが峠のどちら側にも同じ地名が存在するのはどういう意味があるのだろう。浅原(綾部市睦合町)から下粟野(和知町)に向かう堀尾峠というのがある。浅原に堀尾という山地の小字があるのでそれが峠名の由来かと思っていたら、その峠道を下っていった先に堀尾橋という橋が有り、なんとそこにも堀尾という小字がある。菅坂峠もしかりで、木下側と水梨側に菅坂という地名がある。木住峠も鬼住、木住と使用する漢字は違うが同じ地名が存在する。
木住峠の上林側に木住、舞鶴側に鬼住が存在する。
余り深く考えると迷宮に入り込んでしまう。他の峠と同じように目的地の地名を峠名としていたのが、こちらの側にもついてしまったと考えればすっきりする。きずみ峠に行く道だからきずみになったのだろう、遊里側か岸谷側かどちらが先かは解らない。
上林側の川は木住川、峠に向かう谷は肥苅谷と呼ぶ。清水の人はみんなして肥刈りに清水道を登ったそうだ。でも肥刈りっていったい何なんだ。科学肥料の無い時代に自然の草木を利用するのは理解できるが、いったいどのようにしていたかというのは不思議な限りである。柳田圀男の「分類農村語彙」では「半夏生の日から野山の口が開き、肥刈りが始まる。毎年牛を牽いて草を刈りためる。」とあって具体的にどのようにするのか解らない。誰もが頼るネット情報でもよくわからない。かつての農業、特に稲作ではかなり重要な作業であったにもかかわらずその内容がわからないというのは合点がいかない。
以前に鋳物師の資料を見せて頂いた井関(傳)さんのお宅を訪ねる。肥刈りのことはよく憶えておられて、次のように教えて頂いた。
・肥は広葉樹の枝葉を持ち帰る、最良なのはナラ。
・発酵させて田んぼに捲く。
・清水ではこぞって肥苅谷に荷車を牽いて行ったそうだ。
なるほどと思ったのだが後で考えると、いろいろと聞き漏らしたことがある。多分ナラの木を切っておいて新しく出た枝葉を刈ってくるのだと思うが確認できていない。発酵たってどうやってするんだろう。葉っぱはともかく枝はどうなるんだろうとか気になる。荷車もまだ健在だそうだけど見てみたい。
一番気になることは、清水道は清水鋳物師の金型輸送を主とする産業道路と予想しているところへ(2017.12.25参照)肥刈りと荷車の話が出てきたので、実は肥刈り道路ではなかったかということだ。
この広い道を肥刈りの荷車が通ったことは確かだ。