晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

続・二王門現場見学会 4/23

2018-04-23 | 文化に触れよう

2018.4.23(月)曇り

 バスで送迎の見学者も揃い、ヘルメットを着けて足場を上る。今回はどうなっているかなあと楽しみだ。最上階の屋根の部分に到着する。柱や垂木の部分は真っ赤なベンガラで塗られ、板壁の白とのコントラストが美しい。全体的に見られたらさぞや素晴らしいことだろう。屋根は前回見学の際は剥がされてむき出しのところだったが今回はすっかり葺き上がりきれいな木肌を見せている。

栩葺の屋根、栗材は東北のものということだ。右の黒っぽい板は昭和の修理の際のもので鋸挽き、今回は割った栗材なのでかなり小さい。割ったものの方が古い工法だそうで、今回元の工法にもどったということだ。
 栩葺(とちぶき)の栗板がびっしりと敷かれ、その厚さは3cmもあろうか見事なものである。しかも古来の製法にこだわり、割って作られたそうである。ここで上林、特に古和木が名産であった「くれ」のことを思い出す。二王門も創建当時は栩葺ではなかったそうで、途中からそうなったということだ。さすれば上林のくれ葺きが近世の二王門改修の際に採用されたということも考えられそうだ。くれも栗板を割って作るもので基本的には栩葺と同じだからだ。現場の専門家に質問してみたが残念ながらくれについてもなんだそりゃという顔をされてしまった。まあ仕方の無いことだ。

コーナー部分は見事な細工になっている。右の栗材を削って曲線を出している。

 今わたしは手を出せば届くところで二王門を見ている。しかし二王門の本当の美は完成した後、参詣道から見上げた二王門だと思っている。それは栩葺の屋根でも、仁王像でもなく、あの白壁と柱でもなく、垂木である。ある宮大工の棟梁が書かれた本には、日本の木造建築は中世のものが最高で、近世以降に技術が落ちてきたのはマニュアルが出来たせいだとあった。例えば垂木の間隔や屋根の傾斜など均等ではなくて、周囲の景色や地形、傾斜や採光などに合わせて棟梁が加減するということが書かれていた。参詣する人々が最も美しく感じる形に仕上げるというものだ。左右均等に規格的な建物を作るよりは費用も労力も余分にかかるだろうが、それが中世の建築物の美であるという。この難題をも専門家にぶつけて聞いてみた、「二王門にも周囲の風景なんかに合わせて、規格化されていない造りが残っていますか?」「そういうことは俗説であって、あり得ないことと思います」と素気ない回答であった。


二王門の美は垂木である。尾垂木の上面はベンガラが元のままである。人の目に触れないと言うこともあるが用が足されていれば削ってまで塗らないというのが文化財の保護と言うことだろう。
 創建当時の棟梁は周囲の風景にマッチした独特の建造物を建てたけれど、度重なる改修のたびにマニュアル化、規格化された職人によってその独創性、美術性が損なわれたのではないかと考えたい。
 「近く覆いが取られると思います」披露の式典やイベントが行われるだろうが、そんな時でなく、誰も居ない門前に参道を歩いて辿り、見上げて垂木を拝みたいと思うのである。おわり

コメント (3)
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