伊藤元重 東京大学大学院教授
[東京 2日 ロイター] 為替レートは経済のあらゆる動きに反応する。日本の金利や貿易収支が動いても、欧州で財政危機が深刻化しても、中国の経済が減速しても、そして米国が金融緩和をしても、それに反応して動いてしまう。リーマンショック後の円高は、こうした経済の動きへの反応に他ならない。
この先、さらに円高に動くことはあるだろうか。それとも、そろそろ円高のピークに来ているのか。足下の動きを見る限り、どちらの判断も難しい。
年初に欧州の金融情勢が少し落ち着き、米国の景気にも回復の兆しが見えていた頃は、円レートは円安方向に動く気配を見せていた。しかし、ギリシャの選挙結果、あるいはスペインの債務危機の深刻化などで、また円高方向への動きが世間を賑わしている。
今年後半も円レートは大きな変動を示しそうだ。困ったことに70円台前半の円高にも、そして80円台後半の円安にも、簡単に動くことがありそうなのだ。なぜそうなのか、現状を整理してみたい。
<95年に比べて、実質30%も円安>
まず認識しなければいけないのは、「現在の円レートが歴史的にも際立って円高である」という考えが間違っていることだ。それどころか、1995年頃に経験した過去最高の円高に比べて、実質的に30%以上も円安である。水準として見て過去の平均よりは若干の円高であるが、特に際立って円高ではない。
実質実効為替レートを理解している人には、このことは説明するまでもないだろう。大学でも、私は学生に「為替レートを名目で見るのは素人、プロは実質で見る」と教えている。
たとえば、円ドルレートで言えば、1995年に1ドル=80円を切ったことがある。それから現在までに、米国の物価水準はおおよそ40%上昇したが、日本の物価はまったく上昇していない。日本でデフレが続いたからだ。
95年から今までに、40%も物価の開きが生じている。95年の80円は今の57円になる。80を1.4で割った数値だ。日米の物価の開きを考えれば、今の1ドル=79円という数値は、過去のピークの95年に比べて、まだ30%以上も円安である。
円高で大変だと騒いでいるのは、日本人だけかもしれない。欧米のプロのエコノミストは、「実質レートで見て若干の円高かもしれないが、騒ぐほどのことはない」と見ている。
逆に言えば、市場状況によっては、短期的に円高がさらに進むことは十分にありえるということだ。円高の動きを演出するのは、欧州危機と米国の景気動向だ。大きな景気落ち込みの不安感が出てきている中国経済の動きも、重要な要因である。リーマンショック以降、海外で大きなマイナス要素が出てくると、円高に振れる傾向が続いている。今はそういう相場なのだ。
<日本売りを招きかねない政治の迷走>
ただ、中長期的にはもっと円安の方向に進むとも考えられる。
円レートの長期の動きを見ると、戦後直後から1995年頃までは、実質実効為替レートで見て、ずっと円高のトレンドが続いた。戦後の日本の経済発展を反映した結果だ。
95年以降は、長期のトレンドは円安だ。リーマンショック後、欧州や新興国の通貨安が続き、若干の円高への戻りの動きはあるが、高齢化の進行、近隣国の経済発展など諸々の要素を考えると、円高方向にひたすら進み続けるとは考えにくい。
こう話すと、日本経済がうまくいっていないことを認める敗北主義のようだ。ただ、改革の進まない政治の現状を見ると、そう認めざるをえないだろう。
こうした円安のトレンドが根底にあるとすれば、今のマクロ経済状況に大きな変化が生じれば、為替レートは一気に大幅な円安に動く可能性が出てくる。なにより心配なシナリオは、政治の混乱から財政運営に不安が出てきたときだ。
6月26日の衆院本会議で消費増税を柱とする社会保障と税の一体改革関連8法案は可決されたが、与党から57もの反対票が投じられるなど、政治の迷走は続いている。一体改革が今後停滞するようなことになれば、国債の格付けの引き下げがあるかもしれない。そのような動きが日本売り、円安に動かないという保証はない。
<経営者は、三枚の紙を貼ろう>
とはいえ、為替レートの動きを正確に予想するのは不可能だ。それが経済学の教えるところだ。
私は、経営者に対して、三枚の紙を貼ろうと言ってきた。今の円レートを考えれば、70円、80円、90円という三つの紙になる。この三つの紙を貼って、毎日一度は拝むのだ。
神頼みではない。70円になったらどうなるだろうか。自分はどのような準備をしておけばよいのか。しっかり考える。これをシミュレーションという。
もちろん、70円という円高シナリオだけではだめだ。90円という円安シナリオ、そして80円という現状維持シナリオの紙にもしっかりと拝む。
グローバル経済が大きく揺れている今日、為替レートは非常に変動しやすい環境にある。どちらに動くかは、これからの経済展開による。為替レートは、グローバル経済のあらゆる動きに反応するものだからだ。
*伊藤元重氏は、東京大学大学院経済学研究科教授。2006年2月より、総合研究開発機構(NIRA)理事長。東京大学経済学部卒、米ロチェスター大学大学院経済学博士。
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(http://jp.reuters.com/news/globalcoverage/forexforum)
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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[東京 2日 ロイター] 為替レートは経済のあらゆる動きに反応する。日本の金利や貿易収支が動いても、欧州で財政危機が深刻化しても、中国の経済が減速しても、そして米国が金融緩和をしても、それに反応して動いてしまう。リーマンショック後の円高は、こうした経済の動きへの反応に他ならない。
この先、さらに円高に動くことはあるだろうか。それとも、そろそろ円高のピークに来ているのか。足下の動きを見る限り、どちらの判断も難しい。
年初に欧州の金融情勢が少し落ち着き、米国の景気にも回復の兆しが見えていた頃は、円レートは円安方向に動く気配を見せていた。しかし、ギリシャの選挙結果、あるいはスペインの債務危機の深刻化などで、また円高方向への動きが世間を賑わしている。
今年後半も円レートは大きな変動を示しそうだ。困ったことに70円台前半の円高にも、そして80円台後半の円安にも、簡単に動くことがありそうなのだ。なぜそうなのか、現状を整理してみたい。
<95年に比べて、実質30%も円安>
まず認識しなければいけないのは、「現在の円レートが歴史的にも際立って円高である」という考えが間違っていることだ。それどころか、1995年頃に経験した過去最高の円高に比べて、実質的に30%以上も円安である。水準として見て過去の平均よりは若干の円高であるが、特に際立って円高ではない。
実質実効為替レートを理解している人には、このことは説明するまでもないだろう。大学でも、私は学生に「為替レートを名目で見るのは素人、プロは実質で見る」と教えている。
たとえば、円ドルレートで言えば、1995年に1ドル=80円を切ったことがある。それから現在までに、米国の物価水準はおおよそ40%上昇したが、日本の物価はまったく上昇していない。日本でデフレが続いたからだ。
95年から今までに、40%も物価の開きが生じている。95年の80円は今の57円になる。80を1.4で割った数値だ。日米の物価の開きを考えれば、今の1ドル=79円という数値は、過去のピークの95年に比べて、まだ30%以上も円安である。
円高で大変だと騒いでいるのは、日本人だけかもしれない。欧米のプロのエコノミストは、「実質レートで見て若干の円高かもしれないが、騒ぐほどのことはない」と見ている。
逆に言えば、市場状況によっては、短期的に円高がさらに進むことは十分にありえるということだ。円高の動きを演出するのは、欧州危機と米国の景気動向だ。大きな景気落ち込みの不安感が出てきている中国経済の動きも、重要な要因である。リーマンショック以降、海外で大きなマイナス要素が出てくると、円高に振れる傾向が続いている。今はそういう相場なのだ。
<日本売りを招きかねない政治の迷走>
ただ、中長期的にはもっと円安の方向に進むとも考えられる。
円レートの長期の動きを見ると、戦後直後から1995年頃までは、実質実効為替レートで見て、ずっと円高のトレンドが続いた。戦後の日本の経済発展を反映した結果だ。
95年以降は、長期のトレンドは円安だ。リーマンショック後、欧州や新興国の通貨安が続き、若干の円高への戻りの動きはあるが、高齢化の進行、近隣国の経済発展など諸々の要素を考えると、円高方向にひたすら進み続けるとは考えにくい。
こう話すと、日本経済がうまくいっていないことを認める敗北主義のようだ。ただ、改革の進まない政治の現状を見ると、そう認めざるをえないだろう。
こうした円安のトレンドが根底にあるとすれば、今のマクロ経済状況に大きな変化が生じれば、為替レートは一気に大幅な円安に動く可能性が出てくる。なにより心配なシナリオは、政治の混乱から財政運営に不安が出てきたときだ。
6月26日の衆院本会議で消費増税を柱とする社会保障と税の一体改革関連8法案は可決されたが、与党から57もの反対票が投じられるなど、政治の迷走は続いている。一体改革が今後停滞するようなことになれば、国債の格付けの引き下げがあるかもしれない。そのような動きが日本売り、円安に動かないという保証はない。
<経営者は、三枚の紙を貼ろう>
とはいえ、為替レートの動きを正確に予想するのは不可能だ。それが経済学の教えるところだ。
私は、経営者に対して、三枚の紙を貼ろうと言ってきた。今の円レートを考えれば、70円、80円、90円という三つの紙になる。この三つの紙を貼って、毎日一度は拝むのだ。
神頼みではない。70円になったらどうなるだろうか。自分はどのような準備をしておけばよいのか。しっかり考える。これをシミュレーションという。
もちろん、70円という円高シナリオだけではだめだ。90円という円安シナリオ、そして80円という現状維持シナリオの紙にもしっかりと拝む。
グローバル経済が大きく揺れている今日、為替レートは非常に変動しやすい環境にある。どちらに動くかは、これからの経済展開による。為替レートは、グローバル経済のあらゆる動きに反応するものだからだ。
*伊藤元重氏は、東京大学大学院経済学研究科教授。2006年2月より、総合研究開発機構(NIRA)理事長。東京大学経済学部卒、米ロチェスター大学大学院経済学博士。
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(http://jp.reuters.com/news/globalcoverage/forexforum)
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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