「社長」という肩書は「役割」
「社長」や「取締役」という肩書きは、「役割」です。人間として偉いから、社長や役員をしているわけではありません。会社には色々な役割の人がいて、ある人が「社長」や「取締役」という役割を担っているということなのです。
他の人より高い給料をもらえているのは、その責任の重さ故です。それだけです。それを忘れて、「社長」という肩書きを使って人を動かそうとすると、かえって人はついてこなくなります。
しかし一方で、人は肩書きで案外簡単に動くところもあります。私は講演会で1時間くらい話をし、お客さまが疲れてきた頃に、「ちょっと皆さん、右手を挙げてくれませんか」とお願いすることがあります。すると、数百人のお客さまがいらしても、大体は手を挙げてくれるものです。そこで、一番前にいる人にこう尋ねます。「なぜ、右手を挙げたのですか?」。
すると、ほとんどの場合、お客さまはきょとんとされるのです。本人にしてみれば「あなたが手を挙げろと言ったからじゃないか」と思うでしょうし、当然そのようにそうおっしゃいます。
意地悪な質問をして申し訳なかったとは思いますが、それでは、もし私がその講演会場の近くの駅の改札を出た所で同じように「皆さん、右手を挙げてくれませんか」と大声で怒鳴っていたら、一体どうなるでしょうか? 誰も手など挙げてくれないはずです。ところが、講演会の会場であれば、誰もが私の言う通りに手を挙げてくれます。
なぜ、この違いが起こるのでしょうか?
私が「手を挙げてください」と言ったから挙げた、というのは、正しいけれど、ある意味では間違っています。私がそう言うからその通りにするというなら、駅の改札を出てくる人たちも手を挙げてくれるはずなのです。でも、実際はそうではない。
つまり、講演会に来てくださる方たちが、私の言葉通りに右手を挙げてくれるのは、私がその場の講師だからです。「講師」という肩書きがあるからに他なりません。しかし、駅の改札の前では、私はただのおじさんです。「右手を挙げてください」と叫んでいたら、明らかに変なおじさんなのです。そして、変なおじさんの言うことなど誰も聞きません。
肩書きで人を動かしていると部下は動いているふりをする
つまり、そういう意味では、「肩書き」は人を動かすのです。これを、心理学の言葉で「権威」と言います。権威は人を動かします。肩書きで人は動くのです。
ただし、講演会でこの話をした後、「では皆さん、今度は左手を挙げてくれませんか」と言うと、どうなると思いますか。
そう、誰も挙げません。聴衆の心の中は「もう騙されてなるものか」という思いで一杯です。肩書きで人を動かしていると、最後にはそうなります。
社長の場合は、従業員の全てに給与を出し、昇進昇格も最終的に決めている立場ですし、異動などの人事権も持っていますから、言えば周りは動くでしょう。
しかし、肩書きによっていつも人を動かしていると、部下は動いているフリをするだけになっていきます。心から動いてくれないのです。表面的に動いているふりをするだけですから、当然十分なパフォーマンスは出ません。
それでは、人に本気になって動いてもらうにはどうすればいいでしょうか。「人望・人徳」を身につけ、ビジョンや理念をベースにした正しい「考え方」を伝え続ける以外にはありません。他に方法はないのです。
どんな話や命令をするにしても、相手に対する「尊敬」がなければ、本気になって話を聞いてもらえません。人は幸せについてくるのですが、この人についていったら幸せにしてもらえると思うから、人はついてくるのです。それは、会社でもそれ以外でも同じです。
リーダーには、「人望・人徳」が必ず必要です。それはどうすれば身につけることができるのでしょうか。
「人望・人徳」は少しずつ身につける
講演の後の質疑応答などでも、よくそう聞かれるのですが、私はそういう時、決まってこう答えます。「私は知りません。知っていたら、もっと立派な人になっています」。
心からそう思ってはいますが、それでは皆さん納得されませんから、人望や人徳を身につけるために大事だと思うことを一つあげるなら、そう「思う」ということでしょう。人望や人徳を身につけたい、身につけようといつも思っていたら、それが実現する方向へ、0.1歩ずつでも進んでいくのではないかと私は思っています。
人間は、余程のことがない限り、行こうと思う方向にしか行きません。「散歩のついでに富士山に登った人はいない」のです。駅の方向へ行こうと思うから駅へ行くのであって、どこに行こうとも思っていないままフラフラしていれば、どこへ行ってしまうか分からないのです。
それと同じで、人望・人徳を身につけたいと思っていれば、少しずつかもしれませんが、その方向へ行ける可能性があります。
そして、『論語』や『老子』、あるいは仏教書など、昔から長く多くの人に読み継がれてきた本、あるいは松下幸之助さんや稲盛和夫さんのように、正しい考え方で多くの人を動かしてきた方たちの本を、繰り返し、繰り返し腑に落ちるまで読んでみて、自分自身で信念まで高め、それを実践して人望や人徳を築いていくしかないでしょう。
「社長」や「取締役」という肩書きは、「役割」です。人間として偉いから、社長や役員をしているわけではありません。会社には色々な役割の人がいて、ある人が「社長」や「取締役」という役割を担っているということなのです。
他の人より高い給料をもらえているのは、その責任の重さ故です。それだけです。それを忘れて、「社長」という肩書きを使って人を動かそうとすると、かえって人はついてこなくなります。
しかし一方で、人は肩書きで案外簡単に動くところもあります。私は講演会で1時間くらい話をし、お客さまが疲れてきた頃に、「ちょっと皆さん、右手を挙げてくれませんか」とお願いすることがあります。すると、数百人のお客さまがいらしても、大体は手を挙げてくれるものです。そこで、一番前にいる人にこう尋ねます。「なぜ、右手を挙げたのですか?」。
すると、ほとんどの場合、お客さまはきょとんとされるのです。本人にしてみれば「あなたが手を挙げろと言ったからじゃないか」と思うでしょうし、当然そのようにそうおっしゃいます。
意地悪な質問をして申し訳なかったとは思いますが、それでは、もし私がその講演会場の近くの駅の改札を出た所で同じように「皆さん、右手を挙げてくれませんか」と大声で怒鳴っていたら、一体どうなるでしょうか? 誰も手など挙げてくれないはずです。ところが、講演会の会場であれば、誰もが私の言う通りに手を挙げてくれます。
なぜ、この違いが起こるのでしょうか?
私が「手を挙げてください」と言ったから挙げた、というのは、正しいけれど、ある意味では間違っています。私がそう言うからその通りにするというなら、駅の改札を出てくる人たちも手を挙げてくれるはずなのです。でも、実際はそうではない。
つまり、講演会に来てくださる方たちが、私の言葉通りに右手を挙げてくれるのは、私がその場の講師だからです。「講師」という肩書きがあるからに他なりません。しかし、駅の改札の前では、私はただのおじさんです。「右手を挙げてください」と叫んでいたら、明らかに変なおじさんなのです。そして、変なおじさんの言うことなど誰も聞きません。
肩書きで人を動かしていると部下は動いているふりをする
つまり、そういう意味では、「肩書き」は人を動かすのです。これを、心理学の言葉で「権威」と言います。権威は人を動かします。肩書きで人は動くのです。
ただし、講演会でこの話をした後、「では皆さん、今度は左手を挙げてくれませんか」と言うと、どうなると思いますか。
そう、誰も挙げません。聴衆の心の中は「もう騙されてなるものか」という思いで一杯です。肩書きで人を動かしていると、最後にはそうなります。
社長の場合は、従業員の全てに給与を出し、昇進昇格も最終的に決めている立場ですし、異動などの人事権も持っていますから、言えば周りは動くでしょう。
しかし、肩書きによっていつも人を動かしていると、部下は動いているフリをするだけになっていきます。心から動いてくれないのです。表面的に動いているふりをするだけですから、当然十分なパフォーマンスは出ません。
それでは、人に本気になって動いてもらうにはどうすればいいでしょうか。「人望・人徳」を身につけ、ビジョンや理念をベースにした正しい「考え方」を伝え続ける以外にはありません。他に方法はないのです。
どんな話や命令をするにしても、相手に対する「尊敬」がなければ、本気になって話を聞いてもらえません。人は幸せについてくるのですが、この人についていったら幸せにしてもらえると思うから、人はついてくるのです。それは、会社でもそれ以外でも同じです。
リーダーには、「人望・人徳」が必ず必要です。それはどうすれば身につけることができるのでしょうか。
「人望・人徳」は少しずつ身につける
講演の後の質疑応答などでも、よくそう聞かれるのですが、私はそういう時、決まってこう答えます。「私は知りません。知っていたら、もっと立派な人になっています」。
心からそう思ってはいますが、それでは皆さん納得されませんから、人望や人徳を身につけるために大事だと思うことを一つあげるなら、そう「思う」ということでしょう。人望や人徳を身につけたい、身につけようといつも思っていたら、それが実現する方向へ、0.1歩ずつでも進んでいくのではないかと私は思っています。
人間は、余程のことがない限り、行こうと思う方向にしか行きません。「散歩のついでに富士山に登った人はいない」のです。駅の方向へ行こうと思うから駅へ行くのであって、どこに行こうとも思っていないままフラフラしていれば、どこへ行ってしまうか分からないのです。
それと同じで、人望・人徳を身につけたいと思っていれば、少しずつかもしれませんが、その方向へ行ける可能性があります。
そして、『論語』や『老子』、あるいは仏教書など、昔から長く多くの人に読み継がれてきた本、あるいは松下幸之助さんや稲盛和夫さんのように、正しい考え方で多くの人を動かしてきた方たちの本を、繰り返し、繰り返し腑に落ちるまで読んでみて、自分自身で信念まで高め、それを実践して人望や人徳を築いていくしかないでしょう。