心理学研究法 2007-03-29 | Weblog 1-3 まとめ 1)1世紀余にわたる現代心理学は、心への内観的分析からはじまり、その反動として、20世紀前半、自然科学的な因果実証研究のパラダイムを踏襲した行動主義の流れが隆盛を極めたが、20世紀後半になると、心のメカニズムについてのモデル構築を志向した認知主義の大きな流れができた。 2)心理学研究法は多彩である。その理由としては、心そのものが多彩であること、研究者によって心についての基本的な考えがさまざまこと、心についての考えに時代的な思潮(流行)があること、の3つがあることを指摘した。
認知と学習の心理学 2007-03-29 | 認知心理学 05/7/3海保 ばいふうかん 培風館 海保著「認知と学習の心理学」 2章 テニスをするーーー運動技能の形成 2.1 テニス歴40年 25歳で徳島大学に助手として就職した。学生時代の千葉から茗荷谷までの片道2時間の遠距離通学から一転して職住近接となった。たっぷりと時間が出来た。その余裕時間の中の一部に入ってきたのが、テニスであった。運動場の隅にある二面のテニスコートで先生仲間と週に3,4回は、テニスをするようになったのである。 ほとんど正式の訓練は受けていなかったので、ルールもしっかりとは知らなかったほどである。いきなりぶっつけで試合を楽しむのである。最初は、したがって、迷惑参加であったが、ずうずうしく頻繁にコートに出かけた。次第に、上達してきて、それなりのゲームが楽しめるようになってきた。 ほとんどが研究室で一人で机にかじりついていることの多い生活の中で、身体を動かす楽しさと健康向上と共に、こうした場で普段はあまり話しをしたことのない先生仲間と一緒になれるのは実に楽しかったし新しい人間関係を作る上でも貴重であった。 2.2 練習嫌い そのテニス。大学もかわり還暦を過ぎた今でも回数こそ週に2回程度にまで減ってしまったが、いまだに続いている。 それほど好きなテニスでありながら、あるレベル以上に上達しない。理由ははっきりしている。練習しないからである。 そもそも、テニスをはじめた30年前から、練習抜きですぐに試合である。以後、まったく練習なるものをしたことがないのである。上達はもっぱら試合をしながらである。したがって、上達レベルも推して知るべしである。 現在もっぱら使っている4面のコートのうち、隣のコートは、我々とはレベルの違う4人が使っている。その4人は、ゲームをするまでに、ストロークからはじまって、ボレー、スマッシュまで実に丁寧な練習をしてからやおらゲームをする。その頃には、我々はゲームも佳境に入っているのが常である。 下手なのだから練習をして上達すればよいのだが、その地道な努力が嫌いなのである。 2.3 なぜ練習が嫌いなのか 運動技能に限らず認知技能も、上達には練習は不可欠である。練習の増加関数として、技能は向上するからである。一時的な進歩の停滞(プラトー)こそあれ、「間違った」練習さえしなければ技能が低下することはない。 図 典型的な練習曲線 それがやりたくないのである。 試合の勝ち負けを競うほうが楽しいということもある。競争は、何事によらず動機づけの有力な手段である。 また試合の中には、人間関係といった試合とはあまり関係のなさそうなものも含めてさまざまな要素が入り込んでいるので、それらと対処するのが楽しくーー時には面倒になることもあるがーー、また飽きがこないということもある。 コラム「競争と協調」****** テニスのダブルスには、相手との競争と共に、自分のパートナーとの協調も必要である。これが、ダブルスのおもしろさの一つである。 まれにすることもあるシングルだと、競争だけがあからさまになり、その重さが楽しみの枠を越えてしまう。かくして、シングルはほとんどしない。 しかし、これがプロテニスだと、逆に、シングルのほうが、見ていて楽しい。それぞれのプレーヤーが強烈な個性を発揮してプレーをするからである。それに、自分ではいやだが、人が競争の極地で苦しんだり喜んだりするところを見るのは、ドラマを見るようで実に楽しい ***** これらは、なぜ練習が嫌いなのかへの周辺的な答えである。次は、練習そのものが嫌いな理由である。 一つは、単調さ。 ゲームの持っている多彩さにくらべると、練習は単調である。ストローク、それもバックストロークだけを何度も何度も繰り返しやらなければならない。同じことの繰り返しは練習には必須である。 2つは、強制感。 練習であるから、一定の目標へ到達することを目ざしての努力が必要である。一挙手一投足がその到達目標にふさわしいかがチェックされる。コーチでもいれば、なおさら、そのチェックは厳しいものになる。そこに、たかが遊びなのにというような不真面目な気持ちが少しでもあると、練習は強制されたものとの思いが強くなってしまう。
牛乳有害説への反論 2007-03-29 | 心の体験的日記 牛乳、ヨーグルト、コーヒー有害論は、新谷氏の説である。 ミラクル・エンザイムをマジカルキーワードにした 実にわかりやすい本なので、説得力はある。しかし、 ほとんど実証データなし、もっぱら自らの実践と権威だけを ベースに主張するだけ。 それを読んで我が家は、牛乳を半分にしてしまった もっとも栄養過多をおそれてということもあったので。 それにしても、あの程度の論拠で牛乳やヨーグルト、ダメという主張に 業界が反論しいないのはなぜだろうと不思議だった。 やはり、新谷説ーーというより新谷語録は正しいのか、と思ってしまう。 それがやっと、酪農乳業協会が質問状を出したとのニュースを見た。 牛乳消費が落ち込んでいるところに、新谷説である。影響は大きいはずである。 論争や根拠の呈示を求めること、これが健全な社会ではないか。 「食べてはいけない」という本もある。これには、実名入りで危ない 食品が掲載されている。これも、ほとんど、業界は無視を決め込んでいる