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ひさびさのテニス

2008-04-19 | 心の体験的日記
報告を忘れていました??
木曜日、3か月ぶりにコートに
相手は、本格的トレーニングを積んできた
若手の先生
強いこと強いこと
歯が立たない
ただ、ややメタボ気味、そこをついて
相手を動かすテニスをすれば勝ち目があるかも
いや、ないな!!
でも、メタボ解消になるので、また是非、といってくれたので、
毎週、木曜日、相手をしてもらえることに
うれしい!!
******
優香ちゃん
大女優になれる
おちゃらけ番組などには出ないでください
優香 - goo テレビ番組

東京成徳大学応用心理学科「健康・スポーツ心理学科」(申請中)

2008-04-19 | 教育
健康・スポーツ心理学科に入学してほしい受験生の仮想像

名前は山田太郎。高校2年生。硬式テニス部員。
今年は、千葉県高校総体予選3回戦突破をめざして、猛練習中。

しかし、最近、自分のテニスのタレントに眼界を感じはじめている。
それでも、練習に熱中しているのは、テニスが飯より好きだから。

担任の先生からは、そろそろ進路を決めて勉強するようにアドバイスされる。
母親からも、大学はどうするの?とうるさく言われるようになってきた。

自分としては、テニスを続けたいとは思うが、それで将来プロになれるとは
まったく思っていない。
それでも、せっかくここまで身につけたテニスの技能は捨てたくない。

さて、どうしたものか。
大学でも、さらに大学を出てからも、テニスを続けることができる道はないか。
テニスを学びの核にできるような学科はないだろうか。

ありました。それは、
東京成徳大学応用心理学科「健康・スポーツ心理学科」(申請中)です。
http://www.tsu.ac.jp/

写真 今話題の善光寺
無断引用



近未来予測

2008-04-19 | 心の体験的日記
願望もこめて、政治状況の直感的な予測
あたるも八卦
①山口補選 自民党勝利 ←根強い安倍人気がある
            <-政治的混乱を高齢者は好まない
②首相、またまたサプライズ辞任  <=もうあほらしいからやめると顔に書いてある
③道路特定財源化<-来年度予算から。ただし、暫定税率はそのまま。ガソリンはまた値上がりする」
<-これだけスキャンダルが出てくるということは、国土交通省とその組織内部が崩壊していることを意味している。こんな状態にしてしまった、歴代の公明党大臣の責任は大きい。何も知らないで危ない官庁の大臣を引き続いて引き受けさせられている政治的な子どもっぽさにもあきれる。

やり抜く力が育つために

2008-04-19 | 教育
児童心理 2003年8月号
「やり抜く力が育つために」
できばえで評価する
 ---ワークリミットをいかに導入するか
        かいほひろゆき
  筑波大学教授 海保博之

「時間なんか気にすることはない。セルフペースで納得がいくまでやればよい。周囲にはちょっと迷惑をかけることになるが。」
●あってなきがごとしの締め切り
 これまでに、13冊の本を編集してきた。そのたびごとに、執筆者にいかにして原稿提出の締切り(タイムリミット)を守ってもらうかに腐心させられてきた。「催促されてから(締切りを過ぎてから)書きはじめる」と豪語している人がごろごろいるからである。
 締切りを守る守らないは、書いてもらう内容の良し悪し(できばえ)にはあまり関係ない。そこで、図に示すようなタイプ分けをひそかにして、それなりに秘術を尽くしての催促をしてきた。
*****pp1 別添
図1 ワークリミットとタイムリミットとを組合わせてみると
************
 執筆者を選ぶときには、まずは、あるレベル以上のできばえのものを書いてくれる人をとなる。それは、過去に書いたものや研究歴をみればだいたい見当がつく。しかし、タイムリミット感覚のある人か否かは、あらかじめ知ることは無理である。(ある出版社にはブラックリストがあるとの話も聞く。)かくして、編集者泣かせの執筆者がどうしても紛れ込んでしまう。そして、本の完成は、最も遅い人次第となってしまう。

●タイムリミットとワークリミットのせめぎあい(注1)
 子どもを育てる過程で、「急いで」「速く」「遅れるな」「時は金なり」などなど、タイムリミットを強調する叱責や督励の決まり文句を、保護者や教師は頻発する。一定時間内に何かをしなくてはいけないとの規範感覚(タイムリミット感覚)、さらに、一定時間内にできるだけたくさんのことをこなせる能力(タイムリミット能力)を育てることは、子どもを社会化していく基盤の一つであるし、さらに、集団として動く教育現場における統制をとるためにも、絶対に必要である。
 しかし、人の心や行動は、物理的な(時計的な)時間だけではなく、それとは別のオーダーで流れている心理的な時間にも従っている。(注2)しかも、セルフペース、マイペースという言葉があるように、心理的時間のオーダーには個人差もある。子どもでは、この点の個人差は極めて大きい。
 そこに、タイムリミット感覚・能力を育てる難しさがある。
 この難しさに拍車をかけるのが、「できたけれども納得がいかない」「もっとやりたい」「もうちょっとでできるから待って」といった言説に反映されるような、ワークリミット感覚である。つまり、時計時間に縛られないで納得のいくまで何かをやり抜きたいとの思いである。
 かくして、タイムリミットとワークリミットのせめぎあいが教育現場の随所で、しばしば発生することになる。
 教育現場では、圧倒的にタイムリミットが支配することになる。これは、能力の高い子どもには、「時間があればもっと高いあところまで行けたのに」という不全感を、能力の低い子どもには「時間がないからできなかった」という逃げ場を提供することにもなりかねない。
******ppt
図2 別添 
*******
●ワークリミット感覚を育てる
 教育現場では、持てる能力一杯までがんばってやる、ワークリミットの導入には厳しい限界があるのは言うまでもない。
 しかし、タイムリミット感覚・能力の育成が圧倒的に強くなってしまうと、勉強やスポーツへの動機づけ、さらには、それらの質の高度化ができなくなってしまう恐れがある。
 限定的にでも、「やり抜く」あるいは「やり抜いた」というワークリミット感覚を与えられる場と機会を提供して、子どもに心の底から満足感、充実感を与え、さらには、やったことの質を一段上のレベルにまで高めることにつながるようにする配慮もあってもよい。
 では、具体的にはどんな配慮をすべきであろうか。
一つには、できばえをどうするか。2つには、タイムリミットにとらわれなくてもよい状況をどのように教育現場に作り込むかがポイントになる。

●「できばえ」をめぐって
 絶対評価(目標準拠評価)が小中学校にも導入されるようになった。そこでは、何が(評価の観点)どこまでできるようになったか(達成度)で子どもの学習活動が評価されるようになった。まさに、できばえ規準が導入されたのである。
 このように、できばえ規準が外部(カリキュラム)から提供されるところでは、それをめざしてのきめ細かい教授学習活動が期待できる。
 しかし、できばえ規準には、もう一つ、それぞれの子どもなりのもの、つまり、できばえについての個人内規準もある。
 それは、ハイレベルになると、職人による仕事のできばえの自己評価にみられるように、強烈な納得感を伴った規準であるし、逆に、ローレベルだと、「こんな状況ではこの程度できればよい」との合理化された(言い訳じみた)自己満足感を伴った規準である。
 前者は、タイムリミット無視の学習活動になるし、後者は、タイムリミットが合理化の強力な理由になる。ちなみに、原稿の提出遅れの人々にも、この両者がいるので編集者泣かせとなる。
 さて、できばえ評価をするときには、外部規準を過度に押しつけると、ハイレベルの(天才的な)個人内規準をもっている子どもにとっては、より発展的な学習活動への足かせになってしまうこともある。また、ローレベルの個人内規準をもっている子どもにとっては、やっても無駄という無力感の形成へとつながってしまう恐れがある。
 こうした点を克服するためには、領域分けをして、それぞれで異なった評価システムを導入することであろう。 つまり、目標規準を外部に明確に定義できる教科では、目標準拠評価をする。しかし、総合的な学習や部活や技能芸術教科などでは、できばえについての個人内規準に従う評価を導入するのである。
 これによって、その子どもなりのできばえ規準が形成できるようになり、その子どもなりのワークリミット感覚が養えることが期待できる。
 これは、タイムリミットの支配する教育ではどうしても無視されてしまう、もう一つの教育目標と評価の領域を生みだことになる。そこでは、保護者や教師は、名伯楽としての技量が求められることになる。
 余談になるが、多彩な学習活動を一括して同じ評価のまな板にのせてしまう日本の教育界の風潮に対して、こうした領域分けの発想は、もっとその場を得ても良いのではないかと常々思っている。「すべての教科で絶対評価」「すべてにおいて相対評価の追放」は行過ぎであるし、無理がある。
 
●タイムリミットの呪縛をどうする
 言いえて妙だと思うが、「時間」割りという言葉に象徴されるように、教育現場はタイムリミットが、呪縛とさえ言ってもよいくらいに強く支配している。心理的時間とのギャップが大きい子どもは、学校不適応さえ起こしかねない。天才の伝記には、何かにこだわり続けてしまいタイムリミットを忘れて学校からつまはじきにされるエピソードがしばしば紹介されている。
 ここでも、領域分け的な発想が有効と思われるが、それに加えて、次のようなかたちでのワークリミットの導入があってもよい。
 一つは、タイムリミットの限界を大まかにすることである。
 1週間、1か月単位での到達目標を示し、そこに到達するまでの過程は、それぞれの子どものセルフペースにまかせるのである。
 時間を大まかにすることで、タイムよりもワークのほうをより意識させることができるし、セルフペースによる学習は、時間管理を自らがおこなう力をつけるのにも効果的である。「天才は100年単位で生きている」(1)はおおげさにしても、もう一つの時間があることをじっくりと体験させることもあってよい。
 2つは、熱中体験、忘我体験を導入することである。
 タイムリミットが支配する場では、こうした体験は、抑制されがちである。しかし、学習活動の質を高めるためには、我を忘れて熱中する体験も不可欠である。自然の中での体験学習や集団の中で学習で、そんな体験を作り込むのが王道であろうが、最近では、コンピュータの表示・応答技術を使った教材のほうが、現実的で効果的かもしれない。

●ワークリミット型の子どもとタイムリミット型の子ども
 領域分けをして、ワークリミットとタイムリミットを使い分けることを提案したが、さらにもう一つ、この観点から子どもをタイプ分けしてみるのも、教育指導上、効果があるように思う。
 ワークリミット型の子どもとは次のような行動特徴を示す子どもである。
 ・時間を守らない  ・できばえにこだわりを持つ
 ・のろい      ・マイペース
 ・しつこい自己主張 ・素直でない
 ・ルール軽視    ・自閉的
 この反対の行動特徴を示すのがタイムリミット型の子どもである。
 言うまでもなく、ワークリミット型の子どもは、学校では分が悪い。しかし、こうした子どもの中に潜在する、ワークの独創性の芽は、本人にとっても、またタイムリミットに縛られている周囲の子どもにとっても、貴重である。教室の雰囲気の硬直化を防ぐためにも活かせる。

******以下4行は、はみ出るときは、削除してよい****
 最後に、斉藤の著作(1)からもう一つの名言を引用しておく。
「ピカソは、いかに始めるかについては知っているものの、どのように終わるかについては、まったく知らない。」

****
注1)知能検査や学力検査に、タイムリミット(時間制限)検査とワークリミット(作業制限)検査とがある。前者は、一定時間内に出来た個数を指標とする検査、後者は、どれくらい難しい問題まで解けたかを指標とするものである。本稿では、これを敷延して、子どものやり抜く力を育てるにはどうしたらよいかを考えてみる。
注2)物理的時間と心理的時間との間に、生理的時間がある。これについては、本稿では触れないが、無視はできない問題もある。
****
文献
(1)斎藤孝「天才の読み方」大和書房、2003

写真 文九朗君
ちょっと出番を理香ちゃんに
奪われてしまったねー
こんなときこそ、力をつける時
がんばろうねー

ちょっとした日常事故を引き起こすもの

2008-04-19 | 安全、安心、
ちょっとした日常事故を引き起こすもの

 日常の行為の特徴は、いつもと同じ状況で多彩なことを、ほとんど無意識的かつ自動的(習慣的)に行なところにある。

 たとえば、我々大人の朝起きてから家を出るまでにする多彩な行為を考えてほしい。いずれも無意識的かつ自動的だからこそ、ごく短時間で意識的な努力もせずにこなしている。子供の朝のぐずぐずぶりと比較されたい。

 こんな日常の中では、事故は無縁のように思えるが、現実には、かなりの頻度で発生してしまう。なぜか。

 一つは、「いつもとちょっと違う」日常が発生しているのに、いつもと同じようにやってしまったために、状況と行為との間にギャップが生じてしまったことによる事故である。

 机の位置がちょっと動いていたのに、いつものようにまっすぐ歩いてぶつかってしまった。いつもは閉まっているドアが開いていたために、ドアにぶつかっってしまったなどなど。

 2つは、状況はいつもと同じなのだが、自分のほうが変化していて、状況と行為の間にギャップが生じてしまったことによる事故である。

 人の能力は、高まるものもあれば衰えるものもある。いつもと同じにやっているつもりでも、たとえば、高齢者の場合は、70%しかパワーが出ていない、若者の場合は130%のパワーが出ていた、というようなことがある。この30%が、高齢者の場合は、「能力劣化による事故」、若者の場合は、「勢い余っての事故」を起こす。

 さらに、頭の働き、とりわけ注意も時々刻々と変化している。いつもはそれとなく注意を払ってやっていた皿洗いが、あわてたために失敗してしまう、ひげそリ時に子供が泣きだし、そちらに注意がとられて、ついうっかり顔に傷を作ってしまうなどなど。

 要するに、日常のちょっとした事故は、状況と自分の行為との間に「みえにくい」ギャップが発生してしまうために起こるのである。