hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

世田谷城址を歩く

2021-02-19 05:00:00 | 城と城址
『関東の城址めぐり』その2。中々進まないこの企画。ようやく2回目は『世田谷城址』を訪ねてみた。

世田谷城は関東管領足利基氏から戦いの手柄で武蔵国世田谷領を貰い受けた吉良氏が応永年間(1394〜1426年)頃に作った平山城で、天正18年(1590年)に小田原征伐の際、北条氏と姻戚関係にあった吉良氏は滅ぼされ、城と領地は豊臣家に接収された。

場所は小田急線豪徳寺駅近くではっきりはしていないが豪徳寺付近に本丸があり、世田谷城址公園あたりまで広がっていたものと推測されている。

世田谷城址公園へは東急世田谷線(昔の言い方では玉電)上町駅を降りて城山通りを歩く。しばらく行くと烏山緑道の城向橋跡があるが、その先の信号の所に入口がある。


見るからにかつての城郭跡で前方に向かって緩く登っている。その先に土塁跡と思われるように少し高くなっており、手前側は広場になり、ベンチも置いてある。



その奥は低くなっていてまさに堀の跡、枯れた堀を橋を渡ると、再び高くなり、土塁が作られ、もう一段高くなっている。



先はまた崖になっているが、公園はここまでである。廃城になったのが戦国時代末期で世田谷城の城郭に使われた石垣が江戸城の補修に使われたという記録もあるため、現在残されたものが当時と同じとは思いにくいがここに城が作られたいたことを思うと感慨深い。 



ただ、一般の人にはほぼ土むき出しの段差がある公園は犬の散歩くらいしか価値はないのかもしれない。



また、吉良氏と豪徳寺が深い関係にあり、ここから世田谷線宮の坂駅に向かう途中に豪徳寺の参道入口がある。

ようやく2つ目の城跡に行くことが叶ったのだが、次は八王子城址でも行ければよいのだろうか。

牛込城跡を探して

2020-12-22 05:00:00 | 城と城址
『関東の城址巡り』その1。こと東京に限ると現存する城は皇居などがある江戸城のみである。しかし、来年の干支に因む名所を探るうちに『牛込城』が存在していたことを知った。

まだ、都内には他にも城址らしきものがあるのでこれらを巡ってみることにしたい。まずは牛込城、その遺構というか、存在していた場所は新宿区袋町、区登録史跡となっている。説明板には『牛込氏は上野国勢多郡大胡(現在の群馬県前橋市大胡)の領主大胡氏を祖とする。大胡氏は天文年間(1532〜1555年)に南下し、北条氏(後北条氏)の家臣となり、姓を牛込に改めて現在の赤坂・桜田門・日比谷付近を所領とした。後北条氏が滅亡した後は徳川氏に仕え、江戸時代は旗本として存在した』とある。

牛込城は天文年間に築城されたが、徳川氏配下になったのち、1590年に廃城となってしまう。そして城址は現在は光照寺というお寺(1645年に神田から移転)となっている。


光照寺は神楽坂駅から歩き、大久保通りを越えて少し言ったところを右折。すぐに地蔵坂となるが弓なりに曲がったあたりに大きな保存樹の銀杏が見えるその手前に参道の入口がある。



境内に入ると大きく開け、正面には小規模な墓地と梵鐘、右手に本堂がある。本堂は太平洋戦争で焼けてしまい、供出していた梵鐘のみが江戸時代のものである。
寺自体が小高い丘の上にあり、牛込城があったと言われている。ただ、城を彷彿させるものはなにもないが。

光照寺から500mの場所に筑土八幡神社があるが、このあたりに後北条氏と敵対していた関東管領・上杉時氏が筑土城という砦を築いていたことがわかっている。



神社には50段ほどの石段があり、途中児童公園となっているスペースがある。さらに階段を登ると周囲が見渡せる小高い地点となるが、ここに八幡社の本殿がある。



ここから熊谷組本社をはじめ、ビルも見下せるが、建物が無いとするとかなり遠くまで見ることができたであろう。



こうしたことからも今は城の遺構と言えるものは何もないが、城(砦)を築いた理由がよくわかる。地形を見て神楽坂を挟んで上杉氏と後北条氏が敵対していたと考えるだけで面白い。