構図として、きわめてわかりやすい映画だ。
時は明治。貧困のために呉服屋の隠居(殿山泰司!)の妾となっているおかね(若尾文子)は、その境遇に苦しんでいる。しかしある日、隠居が急死し、息子夫婦から手切れ金(かなりの高額)を渡されて縁を切られたおかねは、母とともに生まれた村に帰る。しかし村人は老人の慰み者になっていた(と同時に金持ちになっている)彼女を蔑み、村八分にする。
その村へ、戦功を立てた模範青年である清作(田村高廣)も帰ってくる。彼は軍隊で貯めた金で鐘を買い、毎朝打って起床の合図とする。彼がめざすのは、勤勉でお国のために尽くす村だ。
この、いらつくほど模範的な軍国青年がおかねとできてしまう。まわりの反対をおし切ってふたりは同居を始め、厭世的だったおかねは“生活”を始める。そして日露開戦。ふたたび戦場へ赴く清作をおかねは……
春琴抄の逆バージョン、といえばネタバレになってしまい、阿部定の日露バージョンといえば誤解されそう。おかねは清作の眼をつぶすことで彼を守るが、清作は怒り狂う。鐘をみずからうち捨てた清作は、牢獄から帰ってきたおかねを……。
村はもちろん軍国の象徴で、鐘は健全であることで逆に差別を呼ぶ世間をシンボライズしているのだろう。ふたりで生きていくことを決めたラスト、必死で畑を耕すおかねと、見えない眼で愛する彼女を見やる清作に笑顔はない。このあたりの渋みはいい。
この映画がしかし名画たりえているのは、わかりやすい構図をぶちやぶる凄味が若尾文子にあるからだ。
年寄りによって身体だけは女になってしまったおかねが、模範青年と関係をもつあたりの緊張感は、妖艶さと幼さを同時に演ずることができる若尾文子しか達成できなかったのではないか。再ブーム納得。すごい女優だなあ。もちろん、増村保造の演出もおみごとなのだけれど。
あ、それからこの映画には、頭の弱い親戚という役で小沢昭一が出ているんですけど、それ、絶対にわかんないと思います。あれが小沢昭一ぃ?(笑)