いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

日本ファシズムと日本人民戦線の幻と現実

2015年06月23日 19時53分51秒 | 日本事情

ピケティ解説雑誌記事からの無断コピペ。 森口千晶 [google]と Emmanuel Saez の研究が出典らしい。

■ 上の図の段差こそが、戦前と戦後の段差である。

戦後、圧倒的に不労所得、資本からのアガリを得て「寝て暮らす」階級が没落した。

戦争の結果である。


https://twitter.com/YANA1945/status/613228840542801920 (← 現在存在しません)

第二次世界大戦の原因は、持たざる国・持たざる人びとの反逆だ。 戦争は民主勢力の躍進の中で起こった !

支那事変が収拾がつかなくなったことについての現在の物語は、「軍国主義/ファシズムと右翼」がやった のだというものがある。1980年頃までは、全くその物語で戦後日本は充満していた。でも、伊藤隆など「ファシズム」概念の再検討の研究などを例として、 「軍国主義/ファシズムと右翼」神話の神通力はなくなってきている。

むしろ、支那事変(日中戦争)を煽ったのは、「左翼」 (=公然組織としては社会大衆党、非公然としてはコミンテルン) であるという指摘もなされるようになった。そして、何より、支那事変(日中戦争)を煽ったのは、朝日新聞である。愚記事

関連愚記事; ■ 造反戦争としての1941年の対米英宣戦布告

■ 最近知ったこと; 幻の"日本「人民戦線」"

最近、坂野潤治、『昭和史の決定的瞬間』 (Amazon) を読んだ。2004年刊行の本なので、新しくない。この本にたどり着いたいきさつは新刊の伊藤隆、『歴史と私』を読んで、伊藤隆と坂野潤治は若い頃は「盟友」だったが、どうやら、最近は行く道が違ってきたらしいことに気づいたからだ。おいらは、坂野潤治ってよく知らない。一冊、『未完の明治維新』を読んだが、昭和近現代史、特に戦争突入の時期の研究もしているとは知らなかった。

『昭和史の決定的瞬間』読んだ。「ファシズム」という概念を使っている。これは伊藤隆の思想とは違うだろう。おいらも「ファシズム」って、いまだに分からない。どのようにわからないかというと、日本で誰がファシストなのか?指名された例をあまり見ない。もっというと、東条英機はファシストなのか?近衛文麿はファシストなのか?石原莞爾がファシストなのか?ヒトラーやムッソリーニやフランコがファシストであることは皆が認めることだ。でも、日本のファシストは誰なのだ? 

やっぱ、奴か!?

 やっぱ、奴か(画像編)!?

明快な説明をみたことがない。

さて、「ファシズム」という概念を使っているが、やはり、戦争遂行勢力、戦争協力勢力というのは資本主義に反感を持つ「左翼」、具体的には社会大衆党の(一部)という坂野潤治の検討。

さらにびっくりしたのは、満州事変~支那事変の時期に、日本で「人民戦線」勢力を探そうとする歴史的検討。この検討の根拠は、満州事変~支那事変の時期に実際にその当時の人が雑誌『改造』、『中央公論』で「人民戦線」論を論じていたという事実。

でも、日本での「人民戦線」勢力って、民政党などの既成「ブルジョア」政党である。

そして、もっとびっくりしたのは、清沢 洌(wiki)が人民戦線論を論じていたということ。ネットでみれる情報⇒ 清沢 洌の人民戦線論

おいらが、四半世紀前に読んだ 北岡伸一の『清沢 洌』(Amazon①  Amazon② )には「人民戦線」なんて出て来たかしら。今、ざっと読み返すと、出てない! (今、気づいたが、北岡伸一の『清沢 洌』は2種あるようだ; ①-日米関係への洞察、 ②-外交評論の運命)

「人民戦線」派は宇垣成一内閣の実現を望み、図ったが流産。 流産の原因は陸軍の拒否であるから、やはり、「ファシスト」は陸軍なのか?

清沢 洌は近衛文麿を当時批判していた。清沢が「人民戦線」派なら、やっぱり、近衛文麿がファシストか!?

この画像で、近衛文麿がファシストとは立証できないが、近衛文麿がヒトラーをおぞましくて、拒否すべきものであったと思っていなかったことの証拠にはなる。 支那事変勃発(盧溝橋事件)の三か月前の画像だ;

もっとも、誰かにいわせれば、「この仮装は近衛がコミンテルンの手先であることを隠蔽するための偽装ファシストコスプレなのだ!」ということになるのであろう。

国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎は、これより前に日記(昭和十五年十一月一日の条)に、「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」と書いていた。 (wikipedia 近衛文麿 より)