いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

誰か、 田中光雄 を知らないか? 北京帰りの み つ お

2015年06月28日 12時13分21秒 | 中国出張/遊興/中国事情

最近の購書: 『北京を追われて』、江頭数馬; Amazon

昭和末期、柴田穗は、既に、「伝説」のjournalistであった(関連愚記事群)。


google [柴田穗]

でも、当時はネットなぞない時代、札幌、仙台の古書店の"全ての棚"を見て歩いたような気がする(←おそらく、誤記憶)おいらも、柴田穗の『報道されなかった北京』(Amazon)をみつけたことはなかった。ちなみに、同時代、、札幌、仙台の古書店の"全ての棚"には『日本列島改造論』を見つけられなかった(参照愚記事:)。探してしたのに。


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さて、柴田穗が中国共産党の判断で北京を追放された時、柴田穗も含めて3人の日本人journalistsが追放されたのだ。

ものを知らいないおいらは、最近、ネットでこのことを知った。

1967年9月に『毎日』は反中国的であるという理由で、北京特派員の江頭数馬を国外退去させられていた。こうしたこともあって『毎日』は文革に対して一貫して否定的な論評を続けていた。 (出典; 大阪大学、 黄 芳 、文化大革命と日本知識人(2) : 1969年から1973年ま

もっとも、そもそも柴田穗の『報道されなかった北京』に「サンケイ、毎日、東京[ママ]の三新聞にたいする退去通告」のことは書いてあった。ちなみに、東京新聞と柴田が記しているのは、おそらく、間違い。東京新聞を含む地方新聞合同でひとりの記者を派遣しており、それが西日本新聞の田中であったようだ。柴田の『報道されなかった北京』には毎日新聞、西日本新聞の追放された記者が、それぞれ、江頭数馬、田中光雄であったことは書いてない(ようだ=おいらは見つけていない)。

このように、柴田穗が中国共産党の判断で北京を追放された時、柴田穗も含めて3人の日本人journalistsが追放されたことを、蒙童のおいらは、最近知ったのだ。 おいらは、産経新聞(当時は、サンケイ新聞)はウヨだから、中国共産党の判断で北京を追放されたのだと勝手に思い込んでいた。

違ったのだ。

9月10日、毎日・江頭数馬、産経・柴田穂、西日本・田中光雄の三記者に「警告に背き佐藤内閣の反中国政策に呼応して中国情勢をわい曲して報道した」との理由で国外退去を通告。 (ソース 文革に翻弄された記者交換

産経・柴田穂しか知らなかったウヨのおいらは、毎日・江頭数馬と西日本・田中光雄を、ついこの間、知った。

検索した。果たして、毎日新聞の江頭数馬は、『北京を追われて』という本を出してした。 安いので、購入。

「江頭」というだけあって、やはり、佐賀の出であった。

そして、その「支那通力」形成は、1925年生まれ、東亞同文書院学院(wiki)を経て京大東洋史学科卒とある。 61年(毎日新聞)香港特派員、67年北京支局長。

■ 西日本・ 田中光雄

西日本・ 田中光雄とは、西日本新聞の田中光雄なのであろう。どうやら、北京追放劇の体験記は出版していないようだ。確認できない。⇒ google

■ まとめ1

誰か、 田中光雄 を知らないか? 北京帰りの み つ お

■ まとめ2

江頭数馬(えがしら かずま): 毎日新聞のくせに、中共と「ひそかに情をつうずる」ことあたわず、追放!

なお、この中国共産党による3人の日本人journalists北京追放劇で、追放されず、北京に残った日本人journalist/sの一組織が、もちろん、われらがあの新聞社である。

■まとめ3

・ おいはらわれたっていいじゃないか  日帝の に ん げ ん なんだもの  み つ お

本愚記事、 YouTube; 上海帰りのリル 東京大衆歌謡楽団  を聞きながら書きました。