いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

林芙美子 些細; スキー編

2015年07月28日 19時55分30秒 | その他

林芙美子、『北岸部隊』に下記ある;

 この船は六千五百トンくらいで、〇〇〇丸と云った。印度航路の貨物船だったのだそうである。現役の兵隊や予備の兵隊の人達が私の周囲にいっぱいだった。私はここで味岡少尉という方に逢った。文学の話も造園の話も出来る人である。一度、草津のスキー大会で、私をみかけた事があると味岡さんは云っていた。自動車の方で、九江へ着いたら御便宜をはかりましょうと云って下すった。

昭和12年(1937年)9月の出来事。「〇〇〇丸」と伏字になっているのは、今となっては、ぜのあ丸とわかっている。このぜのあ丸の船倉には300頭の軍馬が積まれていた。なお、上の「自動車の方で、」とは軍馬を用いる部隊ではなく、自動車(軍用トラック)の専門家ということなのだろう。

この文章でわかることは、当時の職業軍人は、当然ではあるが、アッパーミドル階級であり、教養のある人種であったということ。それは常識として、赤の他人である高級軍人が見て、"林芙美子"を「林芙美子」とわかった、という事実が読み取れる。テレビの無い時代にどういうことだ? 「スキー"大会"」とあるから何かイベントがあって、文化人が参加して、「林芙美子さんです」と客衆に紹介があり、味岡少尉は 林芙美子を認識したのだろうか?

年譜にこうあった;

昭和12年(1937年)2月、小林秀雄、深田久弥と草津温泉へスキーに行く(河出書房新書、現代の文学 17 林芙美子集の年譜より)。

草津のスキー大会」とはこのことに違いない。

別途、ネット情報で、小林秀雄の来草は、昭和12(1937)年2月、林芙美子ら文壇の仲間とともに 宿をとり、真冬のスキーを楽しんだことが、芙美子の記録に残されています。 とあった(ソース)。

文人同志の仲間うちのスキー旅行だったらしい。すなわち、文化講演会でもなかったということは、味岡少尉は、紹介されずとも、林芙美子の顔を知っていたことになる。

なお、深田久弥は改造社の編集者で、小林秀雄との関係は下記のごとき;

 学校を出ると、一年ほど関西を放浪していたが、その間「文藝春秋」への匿名連載原稿は、毎月送っていた。東京に還り、母親と一緒に弟夫婦のところに厄介になる様になって、生活上の必要から、はじめて文壇に出たいと本気で思った。
 丁度「改造」で、文藝時評の懸賞募集をしているので、これに応ずるのが一番の近道と思い、ひと月ほど田舎に行って書き、当時「改造」の編集部にいた深田久弥に渡した。一等当選については、書く前から一度も疑ってさえみなかった。発表されたら二等だったのでびっくりした。 (小林秀雄、「文藝春秋と私」、現在、新潮社版小林秀雄全集 第九巻)

ところで、小林秀雄には、「林芙美子の印象」という文章がある。昭和9年/1934年。すなわち、このスキー旅行の3年前。「林芙美子の印象」は深田が小林に、林芙美子の印象を書け、書け!というので、困ったが(しぶしぶ)書いたみたいなことを、小林はこの文章で云っている。そして、ねじり酒のせいにして、「林芙美子の印象」が書いてある。その内容は、また、今度。

■ 別途、週末、ある本を読んでいたら、1930年代の東京人にとっての「スキー」の意味が中野重治を通してわかった。

 ある小説での設定。転向左翼で今では支那戦線で特務機関の手先となっている青年(洲之内徹が自分をモデルにした)が、中野重治を心配する場面;

中野重治と交際のある若い女性が支那戦線に来る。そして、中野重治の近況を青年(洲之内徹)に伝える。

「Nさんはいまどうしていられますか。書くことをとめられてから、金沢かどっかで、郷里で印刷屋をやってられるということを聞きましたが...」

「いいえ、ずっと東京です」

「(中略) それにしても、ああいう人たちの生活は、いまは大変なんでしょう」

「でもね、傍で想像するようなのとは、あの方たちの生活は、前からすこし違うんです。奥さんとお二人のスキーが書斎に飾ってあったり、どちらかというと小市民的というのじゃないかしら」

(大原冨枝、『彼も神の愛でし子か -洲之内徹の生涯-』の洲之内徹の小説『流氓』(意味)からの引用)

スキーが小市民的=プチブルの象徴らしい。

● まとめ


1937年の"私をスキーに連れてって"

プチブル遊びに興じていた文士や軍人は、半年後には、現世と地獄の境目=戦線へ。

プチブル遊びに興じていた女の文士が、いくさ遊びに飛び込み、見て、報告したものは; 

濛々たる黄塵の街道の左右は、支那兵の死体がるいるいとしています。血は溢れ、服は裂けて、手は手、足は足とばらばらになっているものもありますが、流石に生々しい戦線のありさまを見ますと、私は何と云うこともなく、蒋介石に憤りのようなものを感じました。 (林芙美子、『戦線』)

プチブル遊びに興じていた男の文士が、いくさ遊びの結末のあとで語ったとされる言葉は;

僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか!

⇒ 案外、お利巧さんだった お芙美さんは、自己処刑 (愚記事; 林芙美子が死ぬ3か月前に書き上げた『浮雲』を読んだ。この作品が林芙美子の「自己処刑」の話だとわかる