■ はじめに
林芙美子が死ぬ3か月前に書き上げた『浮雲』を読んだ。この作品が林芙美子の「自己処刑」の話だとわかる。『浮雲』の女主人公ゆき子は林芙美子の投影であり、処罰されたのだ。罪科は「デ カ ダ ン の う ま き 酒」(後述)を飲んだことである。
処刑されたゆき子は急病の床で喀血し自分が吐いた血糊で顔面を染め、死んでいった。
この話を作りあげて3か月もたたないで林芙美子は突然の心臓麻痺で苦悶し、死ぬ。48歳。
今日の記事の下記本編をブログ記事を完成させ公開してから、『浮雲』を読めばよかったのだが、もたついていた。なお、下記本編の情報を得た時点[今週末]でも、『浮雲』の話の内容を知らなかった。
『浮雲』についての記事は後日、また。
■ 本編
3月から針生一郎のものを集めて読もうとしてきた。今年3月に仙台に展覧会に行ったことがきっかけだ(『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』)。針生一郎についておいらが関心のあるのは、針生一郎と戦争。針生は敗戦前に日本浪漫派にしびれていたとのこと。これについて、いいだもも[wiki]は針生との対談でこう言っている;
戦争と専制の時代に、単なる封建的反動でない、下層の情念をすくいあげようとした日本浪漫派、近代日本の原罪としてのアジアの問題をすくいあげようとした大東亜イデオロギーに代表されるニヒルでデカダンな - 針生さんあたりは高等学校時代にそのデカダンのうまき酒をたっぷり飲まれた経験がおありだろうと思うんだけど(笑) - そういう独特な酸味のある揺れもどしが起きてくる。 (『反現代文学、 いいだもも対論集』)
この「デカダンのうまき酒」というのがおいらの関心事。
林芙美子の「デカダンのうまき酒」は2点; ① 不貞恋愛(性的アナーキズム [平林たい子の評])と、②軍事冒険主義への参画 (含む、ボルシェビキ/ファシズム/アナーキズムの試飲)。
林芙美子の書いたものは、昭和恐慌→満州事変→支那事変→対米英蘭戦という大日本帝国瓦解への流れの中での出来事の報告による歴史への註となっていると気づいた。
例えば、デビュー作の『放浪記』にある(もっともこの部分は後に付加されたらしい)
―― そのころ、指の無い淫売婦だけは、いつも元気で酒を呑んでいた。 「戦争でも始まるとよかな。」
この淫売婦の持論はいつも戦争の話だった。この世の中が、ひっくりかえるようになるといいと云った。炭坑にうんと金が流れて来るといいと云っていた。
まさに、恐慌を戦争で克服しようとして、失敗したのが、我らが大日本帝国である。その流れに「ルンペン」として参加したのが、林芙美子だ。実際、『放浪記』が売れた当時、林芙美子は「ルンペン作家」とよばれていた。
この『放浪記』が売れた林芙美子のしたことは旅行である。海外旅行。
とにかく彼女の行動力には驚く。上海には満州事変前の平時から第一次上海事変直後、支那事変・第二次上海事変・南京陥落直後と4回(以上)訪れている。そして、パリ・ロンドンへの旅行が有名。
■ 林芙美子は小説家、というより、売文冒険家@しかも、軍事冒険主義時代のボルシェビキ/ファシズム/アナーキズム的冒険家なのではないか?
林芙美子は、勉強して/学習して(書物に傍点を施しては世界を理解しようして)獲得した知識や思想ではなく、自分の経験で世の中に傍点を付けては理解しようとしたのだと思う。一番の林芙美子の背景はアナーキズムだ。そもそも、若いときの出身がアナーキズム・グループだ。アナーキストの野村吉哉と内縁関係にあった。でも、アナーキストの野村吉哉はDV夫であった(林芙美子、『清貧の書』)。そして、林芙美子の背景はアナーキズムに加えて必要なのは、ニヒリズムだ。このニヒリズムとは、「おいしいものが好きで、自分の舌(ベロ)だけを信じる」という意味だ。自分の舌(ベロ)で確かめる=自分の経験で確かめるため、出向いて、実際に体験するのだ。だから、林芙美子はあれだけ旅をうつのだ。実は、林芙美子は知識や思想を重宝しているかもしれないが、表出するときには、そういうことには依存せず、自分の経験に基づき書くのだ。
■元ネタ
林芙美子の作品はかなり限定されたものしか容易に、かつ、安く、入手しずらいというのが、おいらの感想。もっとも、『放浪記』など青空文庫などネットで無料で読める。おいらは現時点で、林芙美子の作品の5%もみていない。でも、林芙美子は人生そのものが面白い。なので、自伝的作品、日記、他人による評伝がおもしろい。
主な元ネタ; 『下駄で歩いた巴里』(岩波文庫)、『林芙美子随筆集』、『林芙美子 巴里の恋』、『戦線』、『北岸部隊』、『ちくま日本文学全集 林芙美子』。
林芙美子の伝記: 平林たい子の『林芙美子』。
(もっとも、これだけでも、いかに林芙美子が「デカダンのうまき酒」をたっぷり飲んだかわかる。)
すごい、林芙美子の人生。 Enjoy your Decadent!
(なお、林芙美子・『浮雲』には、「エンジョイ」 と出てくる。)
(現在、"著名人"による林芙美子についての本、「ナニカアル」、桐野夏生;「林芙美子の昭和」、川本三郎; 「太鼓たたいて笛ふいて」、井上ひさし;「飢え」、群ようこ、などがあることは認識しているが、読んでいない。先入観を持つ前になるべく原作をみたかったから。これから読む。)
ー 林芙美子の各時代での所業について; 各論 -
▼ 満州事変前
満州と上海に行った。満州と上海に行った理由は、おいらの推定では、ロシア(当時はソヴィエト・ロシア)と英仏文化に触れるためであったのではないか。事実、ハルピンでは「日本の「改造」がすらすら読める」ロシア人の教師に取材し、「現在のソヴェートロシアの女流作家」は誰か聞き出し、旅行記のネタにしている(『哈爾浜散歩』 昭和5年/ 1930年、初出不明、現在、岩波文庫 『林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里』)。
林芙美子は、日本の拡張冒険主義が始まる前の小春日和に支那大陸を訪れている。この時期だから、魯迅にも、気兼ねなく、会えたのだろう。2回目の会見は支那事変直後。気まずかったであろう。このように、林芙美子は、戦争前の満州、支那を見物している。
▼ 満州事変直後(大日本帝国、その軍事冒険主義の公然化後)
そして、パリ、ロンドン。1931年6月にシベリア鉄道に乗って、ヨーロッパに行く。もちろんそれまでには、満州を通ってソ連-満州国境の満州里まで満州鉄道で行く。なんと、柳条湖事件の2か月後である。
この時期は、「デカダンのうまき酒」の戦争カクテルはまだ飲んでいないが、林芙美子自身人妻なのに、パリで恋愛に耽っている。このあたりの話は、『巴里の子小遣ひ帳』、『一九三二年の日記』、『夫への手紙』をあつめた今川英子編集、『林芙美子 巴里の恋』に書いてある。2000年に確認されたこととして、パリで白井晟一(wiki)と恋愛関係にあったこと。
そして、おもしろいのが、コミンテルン見物。
1933年にエドワード8世とエリザベス2世がナチス式敬礼をした前の年、林芙美子はロンドンで支那人コミンテルンの反日デモをみる。満州事変を受けての反日デモだ。そして、ロンドンのマルクスの墓参りをしている。ボルシェビキかファシズムかの時代だったのだ。林芙美子がアカであったという証拠はない。ただし、1933年に共産党への資金援助を疑われ9日間中野署に拘留されている。さらには、パリで恋人であった白井晟一は1933年にモスクワに行って、亡命を希望するも受け入れられずに帰国。その後、昭和研究会に参加。マッカだ。
▼ 支那事変
支那事変は漢口進撃への参画。現在、『戦線』、『北岸部隊』と文庫になっている。両者は同じ経験を別々の作品にしたもの。『戦線』の方が先に出版。報道的調子。おそらく作文は現地。『北岸部隊』は現地で書いた日記を元に少し時間を経て書き増したもの。
転がる支那兵の屍の3メートルでの寝食の話など、生なましい体験記。まさに、冒険談ではある。
薔薇 色の澄んだ夕焼がの兵隊たちの顔を赤く染めています。私はここへ今夜は露営するのかと思っていましたところ、渡辺さんは「もっと前進するんだ!新州ま で飛ばせ!」と寺田君に命令をしています。暗い凸凹道を、一つになったフット・ライトでアジア號はぐんぐん進んで行きます。ダウンと、何かに乗りあげては 突き進んでいますが、この狭い道では、何度となく支那兵の死體の上を乗り超えて行きました。
ねえ、この戦争の使命は、老いたる大陸に一つの新しいバイブレイションを捲きおこすのですよ。兵隊は実に元気です。
(愚記事; 林芙美子、『戦線』 (昭和13年刊行、朝日新聞社))
▼ 大東亜戦争
林芙美子は対米英蘭戦争後、1947年(昭和17年)から1948年(昭和18年)にかけて、7か月もジャワ、スマトラ、マレー方面に旅をうっている。もちろん、軍の仕事である。この時期の旅行記、報告文などで手軽に入手できるものを探したが、ない。ひとつ、雑誌を買った。昭和18年(1943年)6月号の雑誌「改造」の、林芙美子、『スマトラ -西風の島-』(愚記事)。これは、上記の戦闘に参加した報告の文章とちがい、生なましいことは書いてない。
なお、 林芙美子は1932年のヨーロッパからの帰りは船でインド洋まわりで帰国。なので、シンガポールなど東南アジアの都市に寄航したはずなのだが、旅行記はない。
● いくさのあとさき; 軍事冒険主義時代の冒険家: 林芙美子
林芙美子の活動期は20年。1951年に死んだので、戦後の独立には間に合わなかった。大日本帝国⇒Occupied Japanに過ごし、「日本国」で生きることができなかったのである。 「デカダンのうまき酒」の飲み過ぎで。この 「デカダンのうまき酒」の"罪と罰"の話が、『浮雲』である。