▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第460週
■ 今週の武相境斜面
■ 今週の花
■ 今週の10%引き
・パイン&ココナッツ ココナッツ入りのカスタード風クリームとパイナップルを合わせたジューシーなデニッシュ。
・白桃パイ 夏季限定 サイト無効中
■ 今週気づいた「古い」教会、あるいは、住宅より早く
筑波みことば教会は茨城県つくば市東のプロテスタント教会です。(同教会 web site)
上の画像は1984年の筑波大学学生新聞から。住所が、谷田部町東、となっている。
40年前からあったのだ。下の1984年の航空写真で「+」の位置。右の楕円が梅園公園、左端の林が赤塚公園。
図中の西大通りという文字の右は、鉄塔の絵。これは、気象研究所の気象観測鉄塔。これは1975年にできたらしい。昔はつくばのランドマーク的存在だった。しかし、2011年に撤去された。
■ 今週のおフランス
フランスの行政裁判所の終審である国務院は7日、イスラム教徒の服「アバヤ」の学校での着用を禁止するとした政府の決定を支持し、差別的で憎悪をあおりかねないとするイスラム教系団体からの訴えを退けた。 (ソース)
■ 今週借りて読んだ本
神谷光信、『村松剛』。2023年4月刊行。法政大学出版、4,500円。ごめんよ、買わなくて、法政大学出版と著者。読みやすく、たくさんのことが書いてあり、とても勉強になった。 ⇒ 出版社による本書情報:『村松剛』
出版社の内容紹介;
東西冷戦期、福田恆存や江藤淳と似た「保守」の立場から活動したフランス文学者・文芸評論家、村松剛。小林秀雄との出会い、ヴァレリー研究、アイヒマン裁判の傍聴、アルジェリア戦争の取材、中東戦争への眼差し、内閣調査室への協力、三島由紀夫や遠藤周作らとの人的交流。その生涯を丹念に追い、いかにして議会制民主主義を尊ぶ保守派のリベラル知識人となったのかを記す、初の評伝的一冊。(法政大学出版)
特徴は公知情報に基づく評伝。村松を知る人へのインタビューなどから得られる未公開情報はない。さらに、評伝の進め方は、複数の各テーマについて、村松と同時期にその問題を考えた人の見解を紹介して、村松の見解と比較して村松の特徴をはっきりさせる方法をとっている。例えば、中東問題では板垣雄三、日米関係の問題では江藤淳とか。繰り返すと、この本は(おそらく)すべて公知情報から成り立っている。その整理、提示の仕方が「独創」である。なお、村松剛の公知文献、出版物のリストはあるが、新聞、雑誌への寄稿のリストはない。したがって、村松が「世界日報」や統一教会系の雑誌(「思想新新聞」)に寄稿していなか、明らかにされていない。
本業はフランス文学、ヴァレリー、その後、(フランスの植民地の)アルジェリア、イスラエルに行き、当地の知見を深める。さらに米国にも滞在し、体験記を書く。これら日本から地理的に離れた水平的に隔離した視点から日本を見る水平的視線、そして、後醍醐研究という歴史的に現代日本から離れた垂直的視点という2つの視点から現状を見て、評論、情勢論を書く。背景が海外見聞と強記博覧。こういう背景で、村松は公知情報から、日本の素人向けの解説書が多い。これはよい商売になったのだろうが、後世に残る創作物とは言い難い。村松は死の直前、偉大な創作を残せなかったと遠藤周作に云ったとされる。余談だが、遠藤周作の作品は遠藤の死後もものすごく売れているそうだ [1]。
[1] 何といっても一番売れているのは『沈黙』です。遠藤さんが亡くなった後で、文庫だけでも40万部出ています。(出典)
▼ 始まりは小谷野敦学術博士
小谷野敦学術博士が2007年に指摘した:「なお村松剛には年譜がないようで、これには驚いた」。(jun-jun1965の日記 2007-12-21 南日恒太郎と村松剛)。同年、小谷野博士は「村松剛を見損なう」と書いている。見損なったということは、それまでは、高く評価していたことを示している。村松剛のどういう点を評価していたのか、わからない。そして、出た。村松剛の評伝。この書への小谷野博士の評がある(神谷光信「村松剛: 保守派の昭和精神史」アマゾンレビュー(削除された))。
なお、小谷野博士は、下記、云っている;
学者というのは、定年退官、退任する際に大学紀要に年譜が載ることが多くこれはいい資料になる。東大には紀要がないが、比較文学の人は『比較文学研究』に載るともいえるが、実際は著作一覧だけである。あと東大教授の場合は学会誌に載ったりする。
しかし時おり、載らない場合があって、片々たる学者ならそれでもいいが、割と重要な学者の年譜がなかったりする。村松剛が、ない。 (2011-07-03 パヴェーゼに挫折する)
1992年に村松 剛先生略歴・著書目録 (村松剛先生退官記念号)がある。
▼ 『村松剛』の著者、神谷光信 さんについて
村松剛の評伝を書いた神谷光信 さんとはどんな人なんだろう?と素朴な疑問がわく。著者紹介には下記ある;
1960年横浜市生まれ。関東学院大学キリスト教と文化研究所客員研究員。昭和文学会会員。博士(学術)。著書に『ポストコロニアル的視座から見た遠藤周作文学の研究』(関東学院大学出版会、2017年)ほか。 (もっと詳しいプロフィールはこちら)
関東学院大学キリスト教と文化研究所の研究員であり、遠藤周作の研究家であるということは、キリスト教徒なのだろうと思い込んだ。さらには、『須賀敦子と9人のレリギオ カトリシズムと昭和の精神史』という著作がある。
なお、先日本屋に行ったら、『世界文学としての遠藤周作文学:ポストコロニアリズムと移動の観点から』(Amazon)、董 春玲、という本があった。ポスコロと遠藤周作、流行っているのか?
神谷光信 さんはキリスト教徒なのだろうと思い込んだのは、神谷さんっていうのだから、神谷美恵子さんの縁者なのかもしれないと空想が広がった [2]。違った。神谷光信 さんはキリスト教徒ではないそうだ。御本人のインタビュー記事がネットにあった;
2017年9月 放送大学博士号(学術)取得 神谷光信 さん(取得時57歳 )
文学を通して、世界を美しくしていくための人間的努力なのです(ソース)
⇒ 書評 竹内洋 醒めた保守の論壇史 『村松剛』神谷光信著
[2] 今、ネットでググったら、あった: 神谷光信 さん、神谷美恵子さんを語る(彼のblog)
▼ 以下、神谷光信、『村松剛』に関すること、本書には関係ないが村松剛についての思いつき
● 愚ブログと村松剛
おいらにとって、村松剛で印象的なのは、彼が進駐軍相手の闇商売で成金となったことと、幕末の安政の「大獄」についての事実の提示のふたつ。前者はこの愚記事で書いた。動機は統一教会問題。一方、後者は愚ブログの早い時期。こっちの記事。ただの引用であったが、おいらの明治維新・再認識の「おはよー!」体験でのこと。
もっとも、村松剛の代表作の『死の日本文學史』と『醒めた炎 木戸孝允』を読んでない。時評を中心に読んだのだ。
● 遠藤周作ー村松剛
なぜ神谷光信 さんが村松剛の評伝を書いたかの動機ははっきりと書いたものを確認していないが、推定できる。神谷光信 さんは遠藤周作について博士論文を書いた。遠藤周作と村松剛は若いころから死ぬまで交友があった。遠藤周作は村松の葬儀で弔辞を読んだ。神谷光信は『村松剛』は、博士論文からの「派生」なのだろう。
おいらは、去年9月に、遠藤周作が書いた村松剛像を引用した。遠藤周作と村松剛は深い仲だったのだ。今思えば、『西欧との対決』にも遠藤周作論があった。
● 最も受難した保守知識人
村松剛の特徴は左翼からの受難。1960年末の大学紛争の時、立教大学教授を辞めている。名目が懲戒免職なのだという。後、これは歴史に残すべきテロ事件だと思うだが、1990年の筑波大の村松剛居住である大学官舎の焼き討ち事件。
● 心の隙間?
村松剛を知ったのは1980年代初頭。おいらは10代の頃からソ連が嫌いで(米国も嫌いだったが)、反共主義の本を探していていた。勝共系の人たちの本もみた。読んで、違和感があった。その理由がわかった。勝共系の人たちというのは、かつて共産主義運動(山村工作隊とか)に参加し、党に裏切られ(と本人たちの認識)、運動に挫折した人たちなのだ。元アカ。その挫折でできた心の隙間を埋めるための思想、それが勝共思想と気づいた。典型例が、福田信之。そういう中で、村松剛を知ったので、この人もその種の人なのではないかと考えてきた。なにしろ、筑波大学にいたので。当時、雑誌、正論や諸君での村松の論文を読んで、その主張に関心をもったのだと思う。ただし、単行本には(本屋でみなかったので)縁がなく、今手元にある文庫、『帝王後醍醐』、『血と砂と祈り』を1980年代初頭ー中頃に買った。『血と砂と祈り』のアルジェリア兵士と肩を組む村松の写真は印象に残った。それでも、村松剛は統一教会系/勝共系のひとではないかという疑念は払拭できなかった。冷戦時代だ。
その後、冷戦が終わり、昭和の終焉と湾岸戦争で、村松は皇室論、主権国家論で活発化する。その頃の本を読んだ。
村松剛についてはその「本性」が別途あるのではないか?という疑問が抜けなかった。つまり、ある種のキリスト教、もっといえば統一教会の「エージェント」=宣伝工作員ではないかという疑問だ。本書(『村松剛』)により、他の家族はそうであったのに、村松剛はキリスト教徒ではなかったと、おいらは知った。なお、情報元は入江隆則。
妹の英子は一九七八年、両親、娘とともにカトリックの洗礼を受けた。しかし、入江隆則に拠れば、本人は「キリスト教は、「村松剛の思想の否定を意味する」として強く拒んでいるとのことだった」(『衰亡か再生か 岐路に立つ日本』)。カトリシズムは西洋文明の骨格であるから、日本人として人生を締めくくるにあたり、「終油[病人塗油]の秘跡」を拒むことで「攘夷」に徹したかったのだろうか。われわれに残された謎である。 神谷光信、『村松剛』
● 東大仏文の御家芸?
村松剛は東大仏文の出身。博士課程を満期終了するまで、つまり1959年まで、在籍していたのだ。本書で渡辺一夫との接点を知ったし、ヴァレリーで加藤周一との比較も興味深かかった。加藤周一が出てきて、ああ、ビンゴと、おいらが思いついたことがあった。加藤周一が辰野隆のマラルメについての講義に出ると、マラルメの借りた家の家賃がいくらかであったかを詮索していると驚く。落ちがあって、中村真一郎に愚痴ると、「運がいい。今年はマラルメの話だ。マラルメ誕生まで講義が1年かかった」。この家賃がいくらであったかということでマラルメとその時代を把握しようとする姿勢。思い出した。村松剛の『帝王後醍醐』。
こんな状態でも米価は建武元年に一斗百文(『護国寺供養記』)で、それほど暴騰というわけではなかった。若狭が飢饉という報告があるが、一般には天候に、どうやらめぐまれたらしい。酒は一升二十文、兎が都では一羽九十五文である(『東寺百合文書』)。昭和五十三年の米価を基準にすると、酒一升が千円、兎が一羽五千円前後になる。 村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』
物価に敏感。東大仏文のお家芸?
● コラボで金持ち東大院生
おいらにとって村松剛の属性で一番興味があるのは、村松が学生時代(彼は博士課程満期までやっているので、長い)進駐軍相手の「闇商売」をやって、大儲けしたこと。この学生時代の闇商売を語った1986年に「今より、金もちだった」といっている。この時村松は筑波大学教授だから、年収1000万円をもらっていなかったであろうが、学生時代に1000万円程度(以上)の稼ぎがあったと証言していることになる。なお、村松には自伝はなく、自分について体系的に語った文章はない。この点も村松剛の特徴である。もどって、コラボというのはフランスでドイツによる占領時代にドイツに協力した人たち;コラボラシオン: Collaboration。
村松剛の属性の最大特徴は博覧強記で、情報整理能力が高いことである。一方、その能力が高くても元の情報が必要だ。神谷光信『村松剛』には書いておらず、さらにはどこにも書いていない、おいらの推定では、「闇商売」をやって、大儲けした金で、洋書・外国雑誌をたくさん買ったのではないか?当時の知的活動の多寡は、入手する情報が重要だ。小林秀雄は辰野隆からヴァレリーの本を貸してもらえたから仕事ができた。
● 大帝後醍醐の時代;地方史の重要性
『村松剛』第17章 和服を着た肖像では、日本史三部作のひとつ、『帝王後醍醐──「中世」の光と影』について書かれている。その中で、後醍醐を知るためには地方史研究が重要であり、村松は各地方の歴史家と交流し、歴史を研究し、『帝王後醍醐──「中世」の光と影』を書いた事情を説明している。後醍醐と地方史で思いついた;
村松の『帝王後醍醐──「中世」の光と影』の後、後醍醐論『異形の王権』を書くことになる網野善彦は、「茨城県」の中世史も書いている。なお、網野の『異形の王権』では、村松の『帝王後醍醐──「中世」の光と影』に言及し、後醍醐とその父後宇田との疎隔について述べるところで参照文献として挙げ、
村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』が細かく辿っているように、後醍醐の母忠子は亀山に寵愛され、亀山は孫後醍醐を一旦、皇太子にしようとしている。後宇多・後醍醐の父子関係は、この点からも疎隔があったのである。(強調:おいら、網野善彦『異形の王権』)
と云っている。
ここで、目を引いたのが、後醍醐の歴史そのものより、「細かく辿っている」。
● 細かく辿る村松剛
「細かく辿っている」がビンゴ!ビンゴ!ビンゴ!。なんのことかというと、村松剛の「レポート」は、細かいのだ。たとえば、中東戦争の解説。たしかに、村松剛は細かい。
● 情勢論/原理論
「細かく辿っている」の続き。下記の神谷光信の指摘は興味深い;
村松は中東情勢に関する該博な知識を披露しているが、全編を通してそこで述べられているのは情勢論であり、原理的省察ではない。
村松の分析が情勢論に傾きがちであることは事実である。(中略)アメリカ合衆国とその「保護領国家」日本との関係も、イスラエルとパレスチナとの関係も、村松はそれぞれのケースにおける情勢論、状況論、相対主義で捉えている。それゆえ判断の基準が揺れ動く。 神谷光信、『村松剛』 p240 ch13
● ひっかかること
神谷光信、『村松剛』では村松像を現すため、類似の人物を比較参照として示し、相違を明らかにする方法を撮る。対外関係についての村松剛の態度・見識を「現実的な開化論」とし、対照となる江藤淳を「攘夷論、民族主義」とする。
大著『醒めた炎 木戸孝允』(一九八七年)で幕末明治を雄勁な文体で描くことになる村松は、本来は主知的な「現実的な開化論」の立場なのであって、西郷隆盛論『南洲残影』(一九九八年)を情念に満ちた文体でロマン主義的に描いた江藤淳が「攘夷論、民族主義」であったのとは対照的である。村松剛のナショナリズムは右翼的心情とは無縁である。 神谷光信、『村松剛』(p136 ch9)
これはよくないと、感じた。類型で考えている。しかも、スナップショット。江藤も村松も対外関係、特に対米関係は愛憎半ばし、時に矛盾した見解、感情をもってきた。なにせふたりとも著作活動の期間が長いのだから、時代や状況でも変化する。たしかに、江藤の晩年の西郷隆盛論について、江藤への驚きが表明されている。一方、江藤はアメリカを嫌いだとは一言も云っていないが、村松はアメリカという国は好きになれないと明言している。つまり、複雑なのだ。それを、「現実的な開化論」とか「攘夷論、民族主義」とか類型化し、決めつけてしまっている。
神谷光信、『村松剛』にはたくさんの情報があり、それらを読みやすくならべるため方便が必要なのは理解する。そして、とても勉強となった。しかし、一方、それら事実に対する批評的な点では、ひっかるところがあった。文章とはなめるように読むべきものだと、おいらは、考えるからだ。
● 村松剛の「細かく辿る」癖との対蹠的文学者たち
湾岸戦争での日本の文学者たちの声明についての神谷光信のコメント;
さて、文学者の反戦声明に関する当時の文章を読むと、イラク、クウエート、サウジアラビア、イスラエルといった中東諸国の政治状況への言及がほとんど存在しない事実に驚かされる。紛争地域への関心がなければ、そもそも反戦の主張は成立しないし、批判もありえないのではないだろうか?当事者たちの現実とまったく関係のないところで議論が行われている印象を拭いきれない。批判者も含めて、彼らは一体、何に「アンガージュマン(政治参加)」したのだろうか。 p368 ch20 湾岸戦争
文学者の反戦声明を起草した文学者たちは日本国憲法に根拠を定めるしかなかった理由は何であろうか。それは彼らが中東地域の歴史と政治の理解に乏しく、詳細な分析を行うことが不可能だったからではないだろうか。 神谷光信、『村松剛』
詳細な中東地域の歴史と政治の理解を有したのが村松。
● ビンゴ! 四方田犬彦ー村松剛
神谷光信『村松剛』の年譜にある。1990年、モロッコの作家モハメッド・アジズ・ラバビと会見。同席者が、平岡千之、小林康夫、四方田犬彦。村松剛と四方田犬彦に接点があったのだ。なお、神谷光信『村松剛』によると村松と由良君美は東京高等師範学校附属小学校で一緒だったらしい。
四方田犬彦はこの神谷光信『村松剛』の書評を書いているとのこと(「週刊金曜日」(1426号、2023年06月02日発行)。
あと、四方田犬彦と村松剛の共通点は、コリア。政治的立場の違いはあろうが、両者とも1980年頃、コリアに入れ込んでいる。村松剛の韓国との交流はこういう(サンケイグループ系)「保守派」の影響下でのものだろう。
https://twitter.com/jomaruyan/status/1157307690156085249
● 筑波大学
村松 剛は1974年8月に筑波大学の教授となる。筑波大学は1974年4月に第1期生を受けれたらしいので(エビデンス)、開学メンバーではなかったのだろう。都会人の村松はどうやって暮らしていたのだろう。週に数日、東京から通っていたのか?1974年の筑波大ってこんな感じ↓。
リンク元 上:1974年 下:現在
村松 剛は、1974-1992年、18年間、勤める。筑波大学での活躍の様子は下記リンクの学生による追悼文からわかる。
<遣悼> 村松 剛先生を偲んで
● テロと維新と、村松剛
1990年に村松剛は居住していた筑波大学官舎を極左集団により焼き討ちされる。この背景には昭和の終焉で、天皇論が活発となり、尊皇派論客として村松は目立ったのだろう、なおこの頃、西部邁と意気投合したらしい。おいらは、座談会で西部が天皇について原理論的な立場からそのあり方を述べると、松村から「過激だね~」と感嘆、感心されていたと記憶している。そして、村松つくば住居焼き討ち。
西部邁によればこうだ;
夕方のTVニュースで筑波大学の村松剛氏の公務員宿舎が爆破されたと知った。瞬間発火温度は一三〇〇度だ、とのことだった。熟年者(西部のこと)はすぐ村松氏の自宅(留守電)に見舞の言葉を入れた。(西部邁『ファシスタたらんとした者』)
これは明らかなテロ行為である。村松剛は不幸中の幸いで現場にいあわせなかった。さて、村松剛は、南ア問題でマンデラ氏をテロリストとして非難している。中東問題では、テロリズムを非難している。PLOのアラファト議長をテロリストと呼び、その来日を非難している。ところで、焼き討ちといえば、駐英公使館焼き討ち事件がある。幕末維新での出来事だ;
英国公使館焼き討ち事件は、文久2年12月12日(1863年1月31日)江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館が焼打ちされた事件。隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助、山尾庸三ら (wikipedia)
「保守」知識人の明治維新に対する認識は重要だと思う。おいらは、村松剛の代表作とされる『醒めた炎 木戸孝允』をまだ読んでない。そして、偶然なんか、何なのかわからないが、英国公使館焼き討ち事件参加者に木戸孝允の名前が見えない。
● 天皇親政問題、あるいは、クーデター(革命?)政権の正統性
明治維新の正統性は天皇が維新勢力に勅を出したことにある。天皇が幕府打倒を命じたという建前となっている。賊臣慶喜を 殄戮せよ。この明治維新がなぜ実現できたかたというと、天皇の命令による鎌倉幕府の討伐という先例があるからだという。その先例としての建武の中興を描いたのが、村松剛『帝王後醍醐──「中世」の光と影』。この天皇の命令による現体制転覆=天皇親政の合理化が、現在や今後に適用できるか、すべきかは議論があるだろう。もし、三島由紀夫のあの事件を合理化するとすれば、この論で合理化できる。錦旗革命。あるいは、明治維新がよくて、なぜ今後の維新が認められないのかという合理的説明はあるのか?今は議会制があるだろうというのは、有効な反論になるとは限らない。今後の錦旗革命は認められないし、明治維新もよくなかったという見識があってもよい、むしろ、保守とはそういう見識をもつことではないかと、おいらは、思う。
● ジェノサイド(大量殺人)の街とその不確かな対米認識
おいらは、今回、神谷光信『村松剛』を読むまで、村松がアイヒマン裁判を傍聴し、見聞録を書いたとは知らなかった。というか、村松剛についてほとんど知らなかったのだ。おまけに、おフランスなぞ無縁なので、ヴァレリー、アンドレ・マルローなぞ読んだこともない。ただ、20年ほど前、他人(ひと)から『ムッシュー・テスト』(岩波文庫)をもらったことがある。未だに積読であった。なお、おいらの人生で他人様から本をもらったのはこれくらいだろう。くれた人はネットのオフ会で出会った人で、未だに本名を知らないし、なぜこの本をおいらにくれたのかもわからない。
さて、村松剛は東京生まれ、東京育ち、敗戦の玉音放送も東京で聞いた。東京といえば1945年3月9日の墨東地区に始まる空襲により、民間人大量殺害が行われた街である。村松剛は、アイヒマン裁判を契機に『大量殺人の思想』という本を出したのだという。今度、読んでみたい。でも、大量殺人の思想というのであれば、米軍の東京でのジェノサイドの思想的背景も検討すべきでないだろうか?村松剛に限らず、日本の「保守派」で、米軍の東京でのジェノサイドについて、『大量殺人の思想』を検討した例を聞かない。
たしかに、村松剛は、早くから、1970年から、江藤淳より早く、検閲批判を含む米国の占領政策を批判している。でも、米軍の東京でのジェノサイドとその思想については言及していない。
● 村松剛 本
2022/9/4にもっている村松の本を集めて、画像を撮った。このとき、『ユダヤ人』、『血と砂と祈り』、『悲劇は始まっている』、『西欧との対決』を集めそこねていた。さらに、神谷の本を読んで、『動乱のヒーロー』を購入した。
■ 今週返した本(全)
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