いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『議論好きなインド人』 アマルティア・セン その3

2008年08月10日 20時11分11秒 | インド・2・4・5回目

- - インドと中国は、国境問題をめぐって対立し、一九六二年にはついに軍事的衝突に発展した。結果はインドの完敗。インドの平原近くまで進撃した中国兵の姿にネルー首相は非常な衝撃を受け、この敗戦のショックがネルー首相の死期を早めたともいわれている。 - - 小川忠 『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭』


『議論好きなインド人』 アマルティア・セン その3、「第8編 中国とインド」のノート。

インドと中国の文明的交流に書いてある。ただし、交流が大規模にあった古代、中世のみについて。 だから、中印戦争なぞ全く触れられていない、ロマンティックな中印交流史。

仏教。中国からインドに多くの学僧が仏教を学びに来た。儀浄とか(ウイキペディアになし。)。(ただし、2ちゃんに、「支那は唐僧の儀浄がインド仏典から音訳した漢語で 日本では新井白石が使用していた。」とある。 つまりは、「シナ」はサンスクリット語由来で、それを音を通じて、漢字に落とした、ということらしい。ホントなのか? ということは英語のChinaは、もともと、サンスクリット語由来ということなのか?)

7世紀に儀浄はナーランダで10年勉強して、たくさんのサンスクリット文献を母国・唐に持ち帰る。これを契機にサンスクリット語→漢語の大翻訳時代が始まり、多くの漢語(概念)がシナで作られた。

センが特筆するのは、インドと中国の知的交流を宗教の伝搬という視線だけで捉えるのは間違いである。すなわち、インドから中国にもたらされたサンスクリット文献は仏教に限るものではなく、「世俗的」な健康・医学、科学、数学の諸学に及ぶ。こういう世俗的諸学をインド・中国の文明において軽視する態度は、物理学者であったニュートンにおいて、実はニュートンはキリスト教・神秘学をもまた研究していたことを無視する態度と共に解釈上の偏向であると注意喚起している。

特筆2; センが指摘し、普通の歴史入門にも書いてあることで、インドでは書かれた歴史資料が少ない。一方、中国では多い。インドの古い文献は宗教書が多い。こういう背景で、インド文明は宗教的であるという偏向解釈が流布する。

だから、インドと中国の交流を研究する上で、どっちで起源したかという解釈はむずかしい。

■ あと、こういうセンの物言いはどうだろうか?

ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・ロールズ、ユルゲント・ハーバーマスらの政治哲学者が主張するように、公共的議論が民主主義の根幹であるとすれば、民主主義の世界的起源の一部は、インドと中国(さらには日本や朝鮮その他)における公的討論の伝統に求められよう。この伝統は、仏教教団の対話への熱意によって強く促されたのである。また注目すべきは、中国、朝鮮、そして日本における初期の印刷術の試みのほとんどは、仏教徒の技術者によるものであったことである。 

仏教が民主主義を準備した、って?

■蛇足;

また君か!


やかましい、方が元気があって良い?



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