今日はつくば記念日。
今から49年前の今日、筑波研究学園都市建設法に、ひろひとさんが書名、押印; ぎょめーぎょじ (愚記事:ひろひとさんのゴーサイン)
以前、下記書いた;
のち、学園都市建設で、名がとってつけられた。松代、竹園、梅園! 松竹梅! なめてんのかぁ、命名者!
その「筑波研究学園都市」のいちおうの中心のつくばセンターは、農地にもならない松林、雑木林台地につくられた(これは実は不正確である。立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしいのだが、その件はいつかまた)。
(愚記事;今日もつくばで; 苅間歩道橋、あるいは、分断された「共同体」を繋いで... )
これについて、誤りの訂正と最近知った公知情報を書く。
【誤り】上記で、「学園都市建設で、名がとってつけられた。松代、竹園、梅園! 松竹梅! 」と書いたが、誤り。具体的にどこか誤りかというと、「学園都市建設で」の部分と松代。
まず、松代と松見を取り違えた。松見、竹園、梅園!とすべきであった。さらに間違いは、松見、竹園、梅園は学園都市建設以前からあった。そして、その松見、竹園、梅園がいつできたかを下記書く。
【敗戦ゆえの緊急開拓地;松見、竹園、梅園】
<竹園の現在>
竹園は現在のつくばエクスプレスつくば駅の南の地区。学園東大通りを挟んで東西に存在する。図中の「稲荷山」はこれから見ていただく過去の地図での目印のため強調図示。
上述「立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしいのだが、」についてネットで情報があった。
緊急開拓地というのがある。1945年(昭和20年)11月9日に閣議決定した「緊急開拓事業実施要領」に基づく。敗戦で大日本帝国が瓦解し、満洲など外地からの引き揚げ者を"帰農させ、その食糧自給を図るため、農地開拓を緊急に実施"した(wiki)。
現在のつくば市の松見、竹園、梅園はそういう緊急開拓事業関連地区であった(らしい)。なので、昔おいらがつくばで聞いた「立ち退いた緊急開拓地の満州からの引き上げ民がいるらしい」は本当だったのだ。⇒ ネットの情報(戦後、満蒙開拓から帰国した人たちが数多く入植した。つくば市内に松見・竹園・梅園という名のついた場所があるが、それらはその人たちの入植地の名という)。下記
一方、下記をネットで見つけた;
筑波學生新聞(1983年)記事;万博のむら (出典 pdfファイル[2.5MB])
「桜村開拓部落(松美・竹園・梅園)」の農家、とある。
<竹園の過去>
そこで、おいらは、松見、竹園、梅園の緊急開拓の痕跡を古い地図で探した。
1972年の地図。竹園の地名、稲荷山が確認できる。当時は桜村。
筑波研究学園都市建設法(1970年)の2年後。学園東大通りはあり、西大通りも建設中。竹園は「田」の字に道がある。これが竹園地区の緊急開拓と思われる。戸数は10戸程度か? なお、「田」の字もそしてその下の新井の下を東西に走る道も今はない。南大通りが全くない。
1974年の航空写真。南大通りができている。竹園開拓地区の「田」の字もかすかに見える。この時点でもまだ農地のようだ。植生が確認できる。しかし、竹園開拓地区の人たちがいつ立ち退いたのかわからない。
1960年の地図。研究学園都市建設前。東大通り、西大通りなど全くない時代。
稲荷山の右わきに水田の細帯状に南北に走っている。これは、谷底低地。竹園が乗っている台地とは異なる地形環境。
<松見地区>
1960年の地図。「松見」の地名は見えない。現状と大違いでわからないと思いますが、「東平塚」を手がかりにしてください。地図の右上の櫛状の道路が区画された開拓地と推定できます。松見地区など松竹梅の三開拓地ついてのネット情報です☟
https://twitter.com/kame_matsuri/status/777693075451674624
<梅園地区>
1960年の地図。「梅園/梅里」の地名は見えない。現在の梅園の位置は図の左半分の下のあたり。
大角豆(ささぎ)の地名を手がかりにしてください。なお左上に「洞峰池」あり。その少し右下に気象施設あり、今の気象研の場所。
「梅園/梅里」地区は区画化された開拓地は認められない。
[松竹梅、まとめ]
つくば市全体での、松見、竹園、梅園の位置は上図。これらの地区は当時の桜村。
開拓集落の地形的特徴=台地
こららの3か所は台地にある。江戸時代は(松)林などに土地利用されていた。炭をつくって江戸で売っていたらしい。これは別の観点でいうと、そういう地域は田畑にならない土地だということ。下の図で竹園の東(右)は河川により開析され谷底地形となっている(図の右上端)。このあたりは水田地域。江戸時代より「豊か」な地域であったに違いない。それに対し、台地は水がないので、農地には向かない。戦後の緊急事態になるまで農地利用されることはなかった。そういう農業に向かない土地が緊急開拓事業の舞台となったに違いない。
::そして、国策::
成田空港と研究学園都市・つくばは、霞が関から、似たような距離にある。おそらく、官僚が地図を広げてコンパスで半径50kmの円を描き、国際空港はここ、研究学園都市はここと決めたのではないか? 半径50kmの円周上で、利用してよい土地として非農耕地&平坦=台地を選んだのではないか?
そして、両者の共通点は緊急開拓事業の入植者に立ち退いてもらったこと。成田がどれだけもめたかは周知 [1]。戦後の国策で土地を大規模に使用する場合、江戸時代以前からの伝統的村落を立ち退かせるよりは、”通りすがり”の「流民」を立ち退かせることの方が多い。つくばの研究学園都市もそういう例だ。
[1] 成田空港建設の土地収用で頑強に抵抗したのは満洲からの引き揚げ農民であったと歴史は語る。google
松見、竹園、梅園に外地から流れてきて、そして、立ち退いていった人たちの消息は、ネットでは、わからない。
一方、現在のつくば市でも旧谷田部町にあった海軍谷田部飛行場は戦後、開拓地となった。上図の「農場」と記された場所。
<<谷田部・「農場」地区; 旧海軍谷田部飛行場跡地>>
1960年の地図。図の最上部中央に「榎戸」交差点が見える。
海軍谷田部飛行場跡地が区画され開拓地となった。農家は36戸入植とのこと。
「住民は戦後この地に入植した36戸の開拓民で、「私は二代目ですが初代はコンクリートや粘土などが混じった水はけの悪い土地を耕して落花生や陸稲を育てました」と元区長の関邦宏さん。」(引用元)
下地図での観音台が旧海軍谷田部飛行場跡地。現在、農水系独法研究所施設。
関連愚記事;旧谷田部航空隊跡地
エピローグ; 竹園の今
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■ 関連情報;
筑波研究学園都市地名攷 (https://4b3.hatenablog.com/entry/20130608/1370629933)