いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

サリーム・チシュティー廟、ファテープル・シークリー、アーグラ、インド

2022年09月11日 13時10分49秒 | インド


サリーム・チシュティー廟

サリーム・チシュティー廟があるファテープル・シークリーにおいらが行ったのは2004年7月10日。タージマハルに行く直前だ。実はこの白い建物が「サリーム・チシュティー廟」であると今週知った。今画像を見ると当時は改修中で中を見ている人はいない。おいらも、この白い建物に近づき中を見た記憶はない。下はwikiからの画像(現在の様子なのだろう)。


Tomb of Salim Chishti wikipedia

この白い「サリーム・チシュティー廟」はスーフィー聖者・サリーム・チシュティー(wiki)の廟(墓)。

■ ファテープル・シークリー訪問の記憶

2004年7月10日の朝、アーグラ駅に着いた。デリー駅からボパール行きの特急に乗って、アーグラ駅で降りた。この朝のことは愚記事に書いた。ただし、その記事ではファテープル・シークリーの画像がない。今日、2004年のデジカメ画像を見直してみた。


アーグラ駅のホーム 乗って来たエアコン付き車両

8:30アグラ・CANNT駅到着。上記のエイジェンシーを通して手配していた(70US$)車とドライバーとおちあう。向こうがおいらの名前を書いた紙を掲げて駅の出口でまっている。


ファテープル・シークリーへの道


大門(ブラント・ダルワーザ)

今、ネットで調べるとこの大門=ブラント・ダルワーザ=勝利の門は、世界最大の門とのこと。デジカメに収まり切れなかった。当時、なぜ遠くから撮影しようとしなかったのか記憶にない。

全景は、ここで見られる⇒ Google画像 [Buland Darwaza in Fatehpur Sikri]


パンチュ・マハル と(後述の本で)今日知った。

この日のデジカメ画像をよくみると、確かに改修していたが、中に入れたとわかる。ただし、おいらは中に入った記憶がない。


ガイドさん。

■ 『1571年 銀の大流通と国家統合』で今週知ったこと

18年前に訪れたこの建物が何であったのかを知った理由は今週借りて読んでいた本、『1571年 銀の大流通と国家統合』(関連愚記事)の第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代(真下裕之)に書いてあった。

第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代は次の4項から成っている;

1 帝都ファトゥフプル
2 新たな秩序に向かって
3 ファトゥフプルの時代
4 チシュティーヤとファトゥフプル造営の由緒

ムガル帝国の三代目の皇帝アクバル(wikipedia)が1574年から10年間、「ファテープル・シークリー」(一般名wiki:本書ではファトゥプル)を首都とした。そのことが中心に書いてある。1571年にアクバルは新都造営を命じた。当時の都はアーグラ。ファテープル・シークリーとはわずか30km。アーグラにはのちにタージマハルが建つ。

皇帝アクバルがこの地を新都に選んだ理由は、スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの縁。

1568年、跡継ぎに恵まれなかったアクバルはファテープル・シークリーに住むイスラーム教の聖者サリーム・チシュティーを訪ね、世継ぎの問題について相談した[1]。すると、彼から息子を授かるだろうとの予言を授けられた。

その後、1569年に王子サリーム(ジャハーンギール)が誕生し、記念としてここに新たな都を造り、アーグラから遷都した。wikipedia

そのスーフィー聖者・サリーム・チシュティーの廟が帝都の大モスクの中にあるのだ。それだけ尊重されていたということ。


大モスクの中庭にあるサリーム・チシュティー廟(右端)

なお、アクバルはスーフィー聖者を崇拝し、デリーのニザーム・アッディーン・アウリアーの廟にしばしば参詣していた。真下裕之はムガル帝国と教団の密接な関係を指摘している。


デリーのニザーム・アッディーン・アウリアーの廟(愚記事より)

しかし、スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの素性がよくわからないとのこと。一方、サリーム・チシュティーの歴史上の役割の謎解きを真下裕之はする。

スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの子孫が皇帝の乳母、乳兄弟となり、皇帝側近となったのだ。スーフィー聖者・サリーム・チシュティーの一族は、アクバルを支える人材の供給源となった。

(前略)考慮すべきは、素性のかくも不確かな男がその死後すぐに、帝都の大モスクに墓廟を献じられたように、また一方、チシュティーヤのスーフィーして聖者列伝に通電されたように、大きな存在感を発揮するにいたった事情である。
 その事情の一つは、この聖者の子孫たちがはたした帝国における役割の性格であると考えられる。前項の「サリーム・チシュティー関係系図」に示したごとく、シャイフ・サリーム・チシュティーの数多くの子孫たちは帝国の記録に名をとどめている。帝国の歴史上、一族の経歴をこれほど長い期間にわたって追跡できる例はまれである。そして注意すべきは、この一族の成員がいずれもチシュティーヤ聖者として名を成したわけではないことである。
 シャイフ・サリーム・チシュティーの娘から生まれた孫クトゥブ・アッディーン・ハーンについて、君主ジャハーンギールは自ら乳兄弟としてひとかたならぬ親近感を抱いた相手であることを書き記しているし、同人の母すなわち自らの乳母は「じつに母親にさえ抱かない親密の情」の対象であったという。またサリーム・チシュティーの息子シャイフ・アフマドは王子サリーム(のちのジャハーンギール)の乳母夫(エテケ)の立場にあったと記録は伝える。乳母の実の夫のみならず、実の兄弟たちまでも乳母夫と呼ばれるのが帝国の慣習だったからである。さらにジャハーンギールが、クトゥブ・アッディーン のいとこにあたる一歳年少のイスラーム・ハーンを「息子」と呼んで特別に遇したのも、このような関係の反映であるに相違ない。要するにサリーム・チシュティーとその一族は、君主アクバルにとって第一王子の乳母と乳母夫、そして乳兄弟を擁する擬似的家族という点で、特別な存在になったのである。 『1571年 銀の大流通と国家統合』、第3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代(真下裕之)

まあ、日本でいえば、徳川三代将軍家光と稲葉家との関係みたいものか。(google

 要するに、後嗣の誕生という帝国の瑞祥と新都の造営という帝国の一大事業を演出していた聖者サリーム・チシュティーと君主アクバルとの関係性は、スーフィー聖者に対する尊崇から、王子の地兄弟一族の破格の登用へと、速やかに変質を遂げたのである。そしてその変質はアクバル治世の後半期にはすでに生じていたものと見込まれる。真下裕之、同上)

■ 銀

この真下裕之の章(ムガル帝国の形成と帝都ファトゥプルの時代)が載っている本の題名は『1571年 銀の大流通と国家統合』。銀の大流通と国家統合に目を配らなければならない。

・ムガル帝国の税制:現金納。銀貨、銅貨が流通
・ムガル帝国は銀貨ルピーを普及させようとした。原料の銀の輸入先は不明。アクバル治世に増加。
・グジャラート(インド西部)は銀流入のひとつの入口。
・17世紀にムガル帝国の銀保有量は2-3倍となった。その銀は、海経由、ペルシア経由など
・1643/44年にグジャラートのスーラトにオランダ東インド会社が持ち込んだ銀のうち19%が台湾経由の「日本銀」

とまれ、16世紀以降、チャイナ、インドともに銀が流入した。

■ ペルシア語への翻訳時代

ファトゥプル時代の特徴。帝国の文化政策。古今の典籍のペルシア語訳。この真島の文章では当たり前のこととして触れていないが、ムガル帝国の宮廷での言語はペルシア語。王命でサンスクリット語、アラビア語の典籍からのペルシア語への翻訳がなされた。

このファテープル・シークリー王宮とアラビア語⇒ラテン語の翻訳センターであったスペインのトレドと似ている。



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