いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第357週

2021年09月11日 18時49分00秒 | 武相境

▲ 今週のみけちゃん

▼ 新しい街でもぶどう記録;第357週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の存在感

咲き始めたと伝えてくるキンモクセイ

■ 今週の草木花実

■ 今週のブリカス[1]さま

[1] ブリカス


カナコロ

2021年9月4日、英空母「クイーン・エリザベス」が初来航し、横須賀の米海軍基地へ入港したのはご存知のとおり。同空母は欧州からインド洋、南シナ海、東シナ海と「不安定の弧」と呼ばれたユーラシア大陸辺縁海域・地域を西から辿り、日本へ到達した。

長い航海の目的はインド太平洋地域の平和と安定のために英国の関与意志を示すものだと言われている。相手は中国だ。日本来航の前に、同空母打撃群は各国軍との共同訓練を重ねており、新たな防衛協力体制を見せることは覇権主義的海洋進出を続ける中国を牽制する狙いがあるとみられている ソース

息子の敵討ち(Prince of Wales撃沈の報復)に来たのか!?とおいらはビビる。

■ 今週の連合国軍


https://twitter.com/uep_tw/status/1435552311619702786


オランダ海軍「エファーツェン」が横須賀へ来航 空母「クイーン・エリザベス」のお供

日本再占領か!?とおいらはビビる。

「横須賀とは思えない」というのは、違うのではないか? 米英蘭ともに、朝鮮国連軍である。「朝鮮国連軍」とは「1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発に伴い,同月27日の国連安保理決議第83号及び7月7日の同決議第84号に基づき,「武力攻撃を撃退し,かつ,この地域における国際の平和と安全を回復する」ことを目的として7月に創設され,同月,朝鮮国連軍司令部が東京に設立された」ものだ。そして、「国際連合の軍隊は,日本国における施設(当該施設の運営のため必要な現存の設備,備品及び定着物を含む。)で,合同会議を通じて合意されるものを使用することができる」のだ。

以上、引用元は、外務省の web site: 朝鮮国連軍と我が国の関係について より。

■ 今週の20年


2012年、パリにて。フォワイヤティエ通り Rue Foyatier (wiki

今週、今日、9月11日は、米国多発テロ事件から20年。

2001年9月11日のことはよく覚えている。その時、おいらは失業者だった。その夜、10時からのNHKのニュース番組で、ツインタワーへの2番目の航空機突入が、生放送された。それをおいらは見た。並び立つビルに2機も航空機が衝突にしているのに、これはテロだ、という確信にはすぐにはいたらなかった。でも「特攻機」というイメージはすぐ湧いて、ネットの掲示板に「カミカゼごっこかよ~」と書きこみした。 (愚記事:2001年 9.11、米国同時多発テロ事件、十年ひと昔。あの時おいらは失業者で、death valleyのとば口だった。

2001年。この時、小泉首相、田中真紀子外相だった。9.1事件の直前にサンフランシスコ講和条約50周年の記念のイベントが米国で行われたと記憶している。その直後に、この事件。

今からみると、グローバリゼーションは、9.11にもかかわらず邁進していった。今では忘れられつつあるBRICS、すなわち、中印露伯南アの新興5か国についての展望を示したゴールドマンサックス社のBricks Reportは、2003年だ。おいらも、資本の手先としてインドに何度か行くことになった(例えば、草莽微賤の地球化)。中二病的「インド幻想」[1]をかつて持っていたおいらは思いもかけずインドに行くこととなる。<資本>と<グローバリズム>のおかげだ。

[1] 中二病の頃から「インド幻想」をもつようになった。アメリカが嫌いだからだ。排外的、右翼的政治的動機からだ。ただし、アメリカが嫌いだからといってインドに注目するとは、インドに失礼なのではあるが。(愚記事:最近読んだ本(杉原薫、『世界史のなかの東アジアの奇跡』)から思い出されたなつかしい本の話)

中露にも行った。 米国も行った。9.11の3年後だ。

 

一方、今からみれば、2001年はおいらにとって、実験しない1年だった。学部4年から研究室/ラボで<実験をする人生>を始め、今に至るまで、もう30年あまり、実験をしている。2001年の9.11事件の頃、ポスドク任期切れで職をさがしている失業者だったおいらは、もう実験はしないだろう/できないだろうと感じていた。でも、結果的に、今に至った。「産業的啓蒙主義」(Industrial Enlightment)のイデオロギーに「帰依」したからだ。最近借りた本に書いてあった;

科学革命が産業革命をもたらしたもう一つの方法は文化を全体として変えることである。モキイアが、産業革命期の継続した発明の活力は科学革命と啓蒙主義に起因する、という有力な説を展開している。これらを結びつけるものが産業的啓蒙主義である。すなわちそれは「自然主義に関する人類の知識を増大させてまたその知識を生産現場で容易に使えるようになってて物質的進歩と経済政庁が達成されると信じる啓蒙主義の一部である」。新しい知識は技術進歩にとっての鍵であり知識は科学と科学的方法による技術研究から生まれた。「産業的啓蒙主義はどう見ても科学革命の論理的な連続性の帰結であった」。 (R.C.アレン、『世界史のなかの産業革命  資源・人的資本・グローバル経済』、第10章 発明家、啓蒙主義そして人的資本)

■ 今週の訃報;またひとり消えゆく日帝兵士@インテリ

一般の人々の視点から歴史を捉える「民衆史」研究の先駆者として知られる歴史学者の色川大吉さんが7日、山梨県内の自宅で老衰のため亡くなりました。96歳でした。google

色川大吉、1924年生まれ。針生一郎、永井陽之助と同い年。でも、二高ではふたりより学年が(2学年?)上だったようだ。色川は中学4年で(旧制)高校入試合格。そして、召集令状が来たとき、色川は大学生だったが、針生と永井は高等学校生(旧制)だった。もっとも、針生と永井は結核で入隊しなかった。色川は1944年(昭和19年)早々に徴兵検査、9月に入隊。土浦海軍航空隊。『ある昭和史』に書いてる。

色川大吉については、2冊しか読んだことがないので、あまり知らないが、現象する”歴史学者”という印象。二高・東大・徴兵・敗戦・山村工作隊・民商専属と「現象」し続ける。自分を度外視した客観的な歴史像を描くのではなく、"歴史"の中で生きる自分という現象を記述する感じ。今度の訃報記事で、「民衆史」とかいわれているが、色川が昭和天皇について直接書いていることを軽視している。あの司馬遼太郎は「天皇について書いていない」といわれているらしい。

さて、色川の自伝では、仙台の二高時代の思い出で、針生の自伝にも出てくる「ドイツ語教師」のことが書いてある。

拙い自分の日記を見ていると、大戦の翳りが次第に濃く蔽ってくるのが分かる。例えば9月にはクラス会の席で大議論が起こり、私は「いつ世界対戦に参戦するかわからない」と書いている。このあと佐々木という同級生の提案で「ナチス研究会」をやることになり、さらにドイツ語の H 教授宅を訪ねて、初めて小野講師からユダヤ問題というのを教えられた。この人は仙台陸軍幼年学校でドイツ語を教えていたがこの春から二高の講師としてきていた。若い新任の講師だったせいか、私たちにはいくらか遠慮したようなふうもあったが、いうことが狂信的で 、たいそう神秘主義めいていた。(色川大吉、『ある昭和史』)

この色川が書いている小野講師というドイツ語教師が、針生が回顧しているドイツ語教師のことに違いない;

そして、昭和20年8月14日には、仙台にも『日本で一番長い日』の「畑中少佐」が、しかも、飛行機でやってきて高等学校のドイツ語教師にもとに来てアジるという話もいとをかし。(愚記事)

敗戦の時は、旧制二高での指導教官――クラスの指導教官がかなり右翼的、右翼的と言ってもナチスばりの思想だったんだけど――そこの家へ行って、玉音放送というものを聞く。彼は学校へ出ていなかったんで、奥さんと並んでラジオを聴いて、翌日くらいからそこの家に、もう大学に行っているけども、(教え子の)右翼的な連中が集まった。この先生は母校である二高に来る前は幼年学校で教えていたんだが、そこの幼年学校の卒業生の青年将校が栃木の軍隊から飛行機を勝手に乗り出して、飛行機で仙台空港に着いた。それで、こんな無条件降伏なんてどう考えたって重臣たちの陰謀だから、この飛行機で行けるだけの人間が行って皇居を襲撃して、天皇を奪い返そうと言う。針生一郎オーラル・ヒストリー 2009年2月28日

この教官が小野講師に違いない。




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