いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第45週

2025年02月01日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第45週

■ 今週の筑豊境

■ 今週の繕い物

■ 今週のお米:自給率100%?の麺麭

お米のブール(フランソア
国内産米粉のほのかな甘みが特徴のシンプルなソフトフランスです◎穀類中に米粉16%使用◎本製品には小麦を含みます。

国内産小麦でつくったとある。お米の原産地を確認することを忘れてしまったのだが、国産米であれば、自給率100%だ。

■ 今週の豪産品

ふるさと納税、北海道 平取町。北海道民おすすめ『ラムしゃぶ』

 

北海道で食べるジンギスカンなど羊の肉は全て輸入品であることは知っていた。1980年代からそうであった。当時、高校生であったおいらは羊の肉は全て輸入品であると知って、少し衝撃を受けた。さて、内地の人が「ラムしゃぶ」を食べるようになったのは何時頃からだろう?むしろ、シナの火鍋経由で知った人もいるのかもしれない。遅くとも1970年代末に北海道の家庭では「ラムしゃぶ」を食べていた。ただし、「ラムしゃぶ」という言葉があったかは憶えていない。当時、「ラムしゃぶ」専門店はなかったと思う。ジンギスカン専門店は多数あった。ジンギスカン専門店がなぜたくさんあったかというと、ジンギスカンの家でやると臭(にお)いが問題だからと思われる。ところで、1980年前半には、おいらの行動範囲では、肉屋に「ラムしゃぶ」用の肉は常時並べて売られていなかった。もちろん、ジンギスカン用のラム肉、マトン肉は売られていた。一方、「ラムしゃぶ」用の肉は半冷凍の肉を薄切りにしてもらって購入していた。常時並べて売られていなかったので、その場で切ってもらうのだ。話は、飛ぶが、カナダ(牛肉の大産地)ではすき焼き用の薄い肉が売っておらず、牛肉は安かったが、すき焼きができなかった。もっとも、カナダの牛肉では脂がのっていないのので、すき焼きにしても合わなかったであろう。話を1980年代前半の札幌に戻して、当時(1980年前半)の肉販売事情を想いだすと、マトンが100g、60円代、ラムが80円代だった。おおざっぱに云って、豚が100g、100円~、そして、牛肉が100g、>400円。まだ、牛肉の自由化が進展していなかった。何より、北海道では牛肉の消費量は、全国的に見て、顕著に低かった。牛肉のすき焼きやしゃぶしゃぶを、おいらの家では、やったことはなかった。高校生の頃は近所の肉屋に行ってジンギスカン用のラムを買って(2-400g)、台所でフライパンで、羊臭を発散させながら焼いて、自家製のたれ、あるいは、ベルのジンギスカンのたれを用い、おやつがわりに食べていた。

■ 今週の和食:お寿司&天ぷら

■ 今週の欠け

お寿司&天ぷらを食べたお店のお茶碗が欠けていた。

■ 今週の訃報、激急追放、あるいは、パラノイアの顛末、そして、生き残った者について

今週月曜日、1月27日朝6時からのTBSの生島ヒロシの番組を聞いた。月曜コメンテーターの森永卓郎が、いつものように、電話出演。ただし、相当具合がわるそうあった。声がたえだえだ。先週と大違い。激変したとのこと。あぁ、これは本当に長くはないな、「死ぬ死ぬ詐欺」とのつっこみも洒落にならないなと思わせるものであった。そして、驚いたことは、森永卓郎の訃報より先に、その日の夕方帰宅すると生島ヒロシが降板させられたとの報であった(生島ヒロシがTBSラジオを降板&無期限活動自粛、パワハラ・セクハラだけではない「身内びいき」の私物化)。翌日火曜日に森永死去。こういう事情で、1・27『おはよう一直線』が伝説回(google)となった。

さて、愚ブログでは20年前に森永卓郎に言及している(2005年12月14日、吉良邸に松の廊下 by 森永卓郎)。その中で森永卓郎を、金子勝と並べて、「彼らはトーダイ出だけれどadministratorに入っていない。つまり、実質的なパワーエリートのなりそこないである。しかしながら、世俗への未練だけはトーダイ出であり、いろいろ芸を工夫して、実社会に影響力を及ぼしている」と書いている。この見立ては20年後も妥当であって、最期はザイム真理教論で世論を席捲し、世論を「煽動し」財務省批判を惹起せしめている。事実、ネットで見る森永追悼の言葉として「本当のことに気づかせてくれてありがとう!財務省が30年の日本経済停滞の元凶です!」といったものが溢れている。森永卓郎は緊縮財政政策を批判し、財務省などが云う財政危機というのは嘘であり、日本政府の財政は健全である。したがって、赤字国債をもっと出しても問題ないと主張している。一方、資本主義については時機に破綻すると主張する。

これだけネットで森永卓郎が話題になる中で、誰も指摘しないことは、森永卓郎こそがパラノイア的人間であることだ。資本主義というのは何よって駆動されているのかを説明する仮説に「成長パラノイア」論(google)がある。森永卓郎は資本主義を人格として駆動させる資本家[1]たちを「病気」として、いくらお金があっても不安で到富衝動から逃れられないと解釈している。資本家たちは全人生を到富行動に捧げる勤勉な人たちだ。つまりは、パラノイアだ。ところで、全人生を勤勉に休むことなく倦むことなく注文原稿を一度も落とすことなくレギュラー番組を病欠することもなく「富」と名声のために捧げたのが森永卓郎である。30年あまり、精力衰えることなく出ずっぱりであった。

[1] (前略)彼は、抽象的富の斬新的取得が彼の操作の唯一の推進的動機たるかぎりでのみ、資本家として、または、人格化されたー意志と意識を与えられたー資本として、機能する。第四章 貨幣の資本への転化 カール・マルクス、『資本論』(長谷部文雄 訳)

 

さて、(2005年12月14日、吉良邸に松の廊下 by 森永卓郎)では、森永卓郎と金子勝との会話について言及している。奇しくも二人はラジオ番組「大竹まことゴールデンラジオ」にてそれぞれ月曜日と金曜日のレギュラーやコメンテーターである/あったが、今では口も利かないのであろう。なぜなら、ふたりの経済観、財政政策観は正反対だからである。森永は赤字国債発行による財政拡大論であるのに対し、金子はアベノミクス批判の筆頭であるからだ。事実、森永が死んだ3日後の同番組では、森永卓郎については一切言及せず(かつては知己にもかかわらず追悼もなしで)、赤字発行という無責任な財政政策を激しく攻撃している(YouTube 「分かれ道に立つ日本経済」【金子勝】2025年1月31日(金)【紳士交遊録】)。

ところで、森永卓郎と金子勝の全く相いれない経世論を、はい、はいと聞く(聞き流す?)大竹まこととは一体なんだろう?

■ 今週のとっくに指摘済み!(福田恒存 風) マスゴミの「若い」女性の役割分担、女子アナ上納問題とその類似事例

マスゴミ、特に、テレビで若い女性、容姿が「良い」女性が登用され、あまつさえ、本来業務以外の女性性を「売りもの」にする業務(接待業務)を強いられることについてTBSが報道している(「不倫してくれたら次もCMを続けるよ」「アスリートをアナウンサーで囲んでほしい」テレビ局の接待の場で何が…メディア業界における女性の)。➡ X(小島慶子 報道特集)

「どんなむちゃなことも、どんな非常識なことも、平気でやってのける男だけが良き働き手とされていて、女性がそういう現場で働かざるを得ない」「若くて見た目が整った女性しか映す価値がないという強固な思い込み」「心身を本当に痛めつけられながら働いてきた人がたくさんいる」(小島慶子)

下記、女性が「飾り物」と指摘している;

もちろん、おいらは、決してリベラルではなく、フェミでもなく、ただのネトウヨであるが、とっくに指摘済みである。約20年も前だ。愚記事:2006年07月11日、反動勢力としてのTBS 。下記、今から思えば、われらがネトウヨが大好きなサンモニである。なお、下記で局アナとあるがアシスタント(唐橋ユミなど三桂所属のタレント)の間違いである。

TBSのテレビ、日曜の朝やっている報道&コメンテート番組がある。関口宏が司会をしているやつ。そのスタジオの構成は司会の関口を中心に、向かって左にコメンテータ4,5人、向かって右に局アナが4,5人。 その局アナは2時間余の番組で4,5人も動員され、各コーナーを担当する。 業務は原稿読みであり、自分の言葉を考えて、発する必要はない。そういう仕事は向かいのコメンテータがするのだ。 さて、変なのは、その局アナが全員「女性」なのである。 司会の関口@男は自分の裁量でじゃんじゃん思いついたことをしゃべり、番組を仕切っていく。そしてGo!サインで原稿を読むのが「女性」局アナなのである。 別に原稿を読む局アナがいても問題ないのだが、というかそれは要請された番組に必要な正当な業務である。 なのに何でそれを多人数でやっているのに、全員「女」なんだ!?



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