大分散歩3:別府、キャンプ・チッカマウガ跡地。別府に行った目的は、別府公園=キャンプ・チッカマウガ跡地へのお参り。大分県の別府には戦後米軍基地があった。キャンプ・チッカマウガ。この米軍基地の特徴は新築であること。日本敗戦後の進駐軍の基地は旧軍の施設(大日本帝国陸海軍の基地)を利用した例が多い。この新築の米軍用の基地というのは、札幌郊外のキャンプ・クロフォードもそうである。さらに、この札幌に進駐し駐屯した米陸軍・第187空挺グライダー歩兵連隊(第11空挺師団の傘下)が、その後遍歴を経て、この別府に来たと知る。札幌と別府の共通点があって、それは戦時中に空爆を受けなかった都市であること。その別府のキャンプ・チッカマウガ跡地をお参りした。もちろん、レコンキスタ史跡探訪だ。
前の晩は鉄輪温泉に泊まったので、バスで別府駅へ向かう。途中に別府公園前というバス停があったので降車。
1.別府公園、2.グローバルタワー、3.京都大学熱学研究所、4.別府翔青高校、5.大学橋、6.新六角温泉
▼ キャンプ・チッカマウガの地図 ↓ 。 番号は上と同じ。
■ 1.別府公園
元は1907年(明治40年)10月に完成した公園である。現在の公園の南側一帯が、当時の別府公園であり、現在の市営テニスコートや元・青山幼稚園などに位置していた。完成直後の11月7日には皇太子時代の大正天皇が巡幸している[2]。1928年(昭和3年)の中外産業博覧会、1937年(昭和12年)の別府国際温泉観光大博覧会は、いずれも別府公園を主会場として開催された。
しかし、第二次世界大戦後に接収されて駐留米軍のキャンプ(キャンプ・チッカマウガ。チッカマウガはチカマウガ戦争で知られるインディアンの呼称。)となり、1957年(昭和32年)に日本に返還された後も、引き続き陸上自衛隊別府駐屯地として使用された。 (wiki)
別府国際温泉観光大博覧会(google画像)
メタセコイア。戦後派だ。
旧来の松林。
▼ キャンプ・チッカマウガ時代の写真
ソース 松林の中に基地ができたらしい。
■ 2.グローバルタワー
大分県出身の世界的建築家、磯崎新氏の設計による
ビーコンプラザのシンボルタワー
2本の支柱とそれを支える弧状の柱がユニークなデザインのビーコンプラザのシンボルタワー。
地上100mに位置するガラスの箱のような印象の展望台から別府市内を一望することができます。
昼間は別府温泉の立ち上がる湯気、青く広大な海、標高1,375mの鶴見岳などの大パノラマが、
夜には「日本夜景遺産」に認定されたムード満点な街の煌めきが眼前に広がります。 (web site)
利用料、300円です。
■ 3.京都大学熱学研究所
➡ この戦前からある建物は進駐軍に接収されなかった(愚記事:進駐軍はお熱いのがお嫌い?(Some dislike it hot?))
■ ⇒ 4.別府翔青高校
旧キャンプ・チッカマウガ地域。このあたりはディペンデント・ハウジング(将校宿舎)域。
キャンプ・チッカマウガは米軍撤退の後、自衛隊駐屯地となる。さらにその後自衛隊は移転。現在は自衛隊の施設ではないと思うだのだが、張り紙がある。
■ 4.別府翔青高校
■ キャンプ・チッカマウガの当時の様子:撤退する米陸軍・第187空挺歩兵連隊、1955年
キャンプ・チッカマウガに駐屯した米陸軍・第187空挺歩兵連隊の別府到着と別府撤退の両方の動画がある。YouTubeで見ることができる。
到来・United States Army 187th Airborne Regimental Combat Team returns to Japan from Ko...HD Stock Footage
撤退・Big Picture: Operation Gyroscope
下記画像は上記「撤退」の動画から取った(到着時の画像切取りはこの記事);
packing(引越しの梱包)
米軍を撮ったあまたの写真において、この写真の特徴は「松」
正門を出る米陸軍・第187空挺歩兵連隊
キャンプ・チッカマウガから別府駅までの行軍。紙吹雪で送られる。
別府駅。 FAREWELL TO 187 ABN □□ :さらば!第187空挺歩兵連隊
「farewell」は英語で「別れ」を意味する言葉で、友人や家族、同僚などとの別れを表現する際に用いられます。特に永遠の別れや、再会の見込みが薄い場合に使われることが多いです。(google)。 ところが、<奴ら>は、一昨年(2022年)に再来したことは報告した(愚記事:子猿をめぐる冒険 :米陸軍第11空挺師団の再興2022と再来;They shall return, again since 1947)。なお、since1947は間違いである。since 1956である。1956はもちろん上記別府から去った年だ。
別府市長さん(右から2番目)だそうです。
▼ 米軍基地の特徴:兵舎域と将校用家族住宅域の相違
一般兵士用の兵舎は整然とした区画に建てられている。一方、将校用の家族住宅は曲線道路で特徴づけられる区域にある。これはキャンプ・クロフォードと同じ。
■5.⇒ 大学橋
この大学橋の通りは当時基地外ではあったが、道路は接収されていたとのこと。キャンプ・チッカモウガの北側には境川を越えて南荘園町というのがある。ここに基地外の米軍住宅があったらしい。それらは日本人用住宅を米軍が借り上げて、住んでいたらしい。
第187空挺歩兵連隊と交代してキャンプ・チッカマウガに駐屯した第508歩兵連隊(wiki)のweb siteにあった;
OFF-BASE DEPENDENT HOUSING = 基地外の扶養家族用住宅
http://www.508pir.org/odessey/japan/beppu_10b.htm
この第508歩兵連隊、のちにテト攻勢のフエの戦い [wiki]に参加
■ ⇒ 境川沿いを歩き、新六角温泉へ
6.新六角温泉
キャンプ・チッカマウガ跡地をお参りするため予習をした。そのとき地図で特徴的街並み・区画を見つけた。あぁ、何かこれは米軍と関係するのあろうか?と思った。それにしても、米軍駐屯地で多角形の街並みというのは見たことがない。多角形なのは<奴ら>の司令部の建物だ(愚記事:札幌郊外の米軍ペンタゴン)。道ではない。歴史を調べるためには、過去の航空写真を見ればい良い。見た。何と、戦前からある。進駐米軍より以前からあるのだ。奇妙な街並み。この時点で、田園調布を散歩したことがあるのに、全く気付かなかった。検索して、知った、緑ヶ丘中央温泉(六角温泉)について。
昭和14年(1939年)の航空写真
緑ヶ丘中央温泉(六角温泉)について
昭和8年、泉部土地建物の全身の会社である、国武合名会社は観海寺・荘園一帯を郊外型高級別荘地として開発を計画し、荘園は「緑ヶ丘(みどりがおか)」「雲雀丘(ひばりがおか)」「百花村(ひゃっかそん)」「鶯谷(うぐいすだに)」と4つのエリアに分け、それぞれの中心付近に共同温泉を建設した。
「緑ヶ丘」(現南荘園町)は、同心六角形の放射状街路で構成され、その中央には街のシンボル的な存在の六角形の外観を持つ緑ヶ丘中央温泉(通称六角温泉)が建設された。この共同温泉は地域の社交の場、娯楽の場である。放射状の街づくりの原型として考えられたのが「東京・田園調布」「パリ・シャルルトゴール広場」であった。
六角温泉は昭和8年浜脇の大工・田仲亀鶴によって建築された。
平成16年9月、六角温泉は大型台風の罹災に遭い大破。
平成17年1月より「新六角温泉」の建設が始まり、同年5月完成する。
⇒ 「別府=パリ?」80年前には放射状の形に 中心のシンボルは会員限定の温泉
⇒ 【大分・別府】温泉地に現れた謎の道路模様
■ ⇒ 境川沿い、バス停・野口原へ
栄光園は、戦後の窮乏と困難のなかにあって捨てられた混血児を暖かく迎える施設として1950年財団法人基督教栄光園として発足しました。(web site)