いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

丹波笹山に出張&教養の没落を考える。

2004年09月03日 21時37分46秒 | 
いか@ 丹波笹山に出張し、而して教養の没落を考える。なんちって。



関東のいなかから関西のいなかに出張する。片道6時間かかった。往復12時間で、お仕事5時間。やれやれ、ではある。焼きさば鮨をみやげにする。これは大阪のではなく福井・若狭は小浜のものである。がなんと原材料をみると鯖がノルウェー産だった。
♪~I once had a Sushi, oh should I say Sushi onece had me?~♪~Sushi showed me her origin. Isn't it good Norwedian Saba?~♪~ with エレキシタール!

行き帰りの電車に乗っている間、竹内洋『教養主義の没落』とカンサンジュン・森巣博『ナショナリズムの克服』を読む。前者、教養主義とかいわれてもピンとこない。が昔ビートたけしのネタに「ぼくは、自由人」と言ってはおねえちゃんだますサルトルかぶれの青年(当時)が嘲笑されていた。そんなインチキくさいイメージかな。戦前・戦後の教養主義とは近代/西欧化する日本でいなかから大学に入るため出てきた青年が成り上がるため、あるいは成り上がるため棄てた自分の土着文化を補填するため、刻苦勉励して身につけようとしたものである。

目を引いたのが、石原慎太郎が芥川賞をとったころ、その小説のネタが当時のインテリに対する強烈な対抗表現でったこと。当時の左翼的・マルクス主義的インテリ、ひいては教養主義、に対する憎悪。石原に「教養」があるかという問いには、意見が分かれるだろう。最悪のデマゴーグと思うひともいれば、自分の考えを自在に表現する最高のステーツマンと考えるひともいる。彼の主張への賛否を別にすれば、表現者としては「日本人ばなれ」している。なにより、文がかける。この点小泉の純ちゃんとは違う。もうひとりの小説家あがりの知事、田中康夫も彼の主張への賛否を別にすれば、表現者としては「日本人ばなれ」している。

今後の日本社会で求められるのは、このような表現技能・しゃべり/かきであり、これらができる人が「教養」ある人とされればいいと思うのだが。

カンサンジュン・森巣博『ナショナリズム克服』には今度言及。




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