お京阪参り; 「夷酋列像」と「夷装行列」 を見た!
■ 1. 大阪、京都旅行で最初に万博記念公園にある国立民族学博物館で開催中の"特別展「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」"を見物に行った。
「夷酋列像」とは何か?
■ 描いた人; 蠣崎波響(かきさきはきょう wiki)[1764-1826]。 蝦夷地・松前藩の家老にして、画家。実家は松前藩の藩主の松前家。家老の蠣崎家の養子となる。17歳から家老見習いを始める。雅号じゃない俗名は、蠣崎 広年。
■ 描いた年; 1790年
■ 絵画作製の場所; 蝦夷地松前
■ 描かれたときの状況; 当時、今の岐阜県の商業者・飛騨屋が今の道東:根室―知床地方でアイヌを酷使したので、アイヌが蜂起。蜂起で71人の和人が殺される。これに松前藩が出兵(クナシリ・メナシの戦い [wiki])。
■ 描かれた対象; 和人と宥和派のアイヌの指導者など12人。12人の名前が明らかになっている。
■ 描くことを命令した人; 松前藩主の松前道広(wiki)。蠣崎広年の実兄。
■ 描くことを命令した人の動機; アイヌ蜂起を無事解決できたことを「内地」に示すための政治的喧伝( プロパガンダ !)絵図が必要となった。
■ この絵を見た高位の人、あるいはその従者; 光格天皇、高山彦九郎、などなど
■ 現在の絵の所属; フランス プザンソン考古博物館(11点)、函館市立博物館(2点)
■ 書かれた人物特徴; 来ている衣装がチャイナ(当時、清朝)、ロシアなどの華麗なもの。
これらのアイヌの指導者は実在の人物だが、実際にこういう様相をしていたか、史実的根拠はなさそう。人物像は、お手本となる姿勢や身体の各部位、特に目などが既存の図案を用いている。つまり、造形された人物像が、まるでアバターのように、記号の集積のようである。つくられたキャラ像群というものとみえる。すなわち、「ポケモン図鑑」のような「親和人派アイヌ酋長図鑑」だ。
問題は、描いた蠣崎波響がどういう視点で描いていたかということ。もっと言えば、どういう、無意識にせよ、イデオロギーでアイヌを認識し、表象させたかということ。
単純な、アイヌ=野生という視点ではない。なぜなら、描いたアイヌにチャイナやロシアの壮麗な衣装を、絵上では、まとわせているから。一方、アイヌの目つきは真実ではないような様相として描かれている。蜂起アイヌ平定に協力した「味方」でありながら、そのアイヌの目つきを描く視点、そしてその根拠となるアイヌ認識は尋常ではない。
単純に、和人が自己中心的に野生文明を見る視点ではない。つまり、単純な華夷思想的イデオロギーに基づく視線でアイヌを見ているわけではない。華夷思想的イデオロギーと言えば、皮肉なことに、野生のアイヌにチャイナの壮麗な衣装をまとわせている。
ちなみに、この「夷酋列像」が描かれた頃のチャイナの天子さまは、清朝の康熙帝であり、こういう衣装だ;
(ひょっとして、おいらと同じ無知蒙昧な、間違って愚ブログに来た18君のために書くと、この当時、変態 変体 といえども、われらがぬっぽんの公文書は漢文=チャイナの文字・言葉で書かれていたのである;(変体漢文[google] )
愚記事より; うめちゃんと康熙帝(こうきてい) wiki[康熙帝]より
当時の「天皇陛下」であった光格「天皇」 [1]は、この「夷酋列像」を見たとされる。われらがぬっぽんの酋長さまが、北方「辺境」の酋長の列像をみたのだ。そして、光格「天皇」は、支那の皇帝がどういう衣装をしているのか知らなかったであろう。北方「辺境」の酋長は、支那の皇帝と同じ衣装だったのだ。
[1] 光格「天皇」; 明治維新の時の天皇は明治天皇であったが、その王政復古の偉業達成は、明治天皇に先立つ光格、仁孝、孝明の三代の天皇の朝廷の権威の復興の成果であったとされる。なにしろ、光格天皇以前の天皇は、62代の村上天皇を最後として、「天皇」ではなかった。例えば、現在この平成の時代、建武の中興の帝を後醍醐天皇と呼ぶがこれは大正時代に日帝政府が称号を定めたからで、江戸時代は後醍醐院と呼ばれていた。(愚記事;今度、吉宗クンと竹田クン。)
■ 2. 「夷装行列」
3日目は京都の清水寺方面に行った。三年坂附近で華人(中国語を話す人たち)が、われらが東夷の衣装を身に着け、練り歩いているのをみた。「夷装行列」 ! この↑行列の和装の着物の絵柄はまだおとなしい方で、こういう↓華人向けの和装が主流である。
左の子供が来ているのはチャイナドレスではない。足許の足袋と草履で和装と確認できる。