いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

夕闇のモスク

2004年07月15日 19時10分44秒 | インド

前編、「喧騒のチャンドニーチョーク」はカレンダーの15日をクリックしてみてね!

チャンドニーチョーク探検の最終段階での風景


チャンドニーチョークからジャマーマスジッドの裏を見る。

この夜、ムガル・イスラム気分にあおられて、ムガル料理屋でマトンを食べる。

喧騒のチャンドニィチョーク

2004年07月15日 14時35分18秒 | インド
ムガル朝以来のデリーの「アメ横」。でも規模は数十倍、濃縮度も数倍!

行ってきました、チャンドニーチョーク。仕事のあと日没前にデリーのムガル朝時代以来続く大小売市場・バザールに行ってきました。ガイドを雇っていきましたが、二人で歩いて、自分の足で探検しました。その人ごみたるや年末のアメ横か、初詣の明治神宮かというほど。平日なのに。ぼやぼやしてると人力リキシャの客車に後ろふとももをけられます。おいら数度けらけました。あぶない、あぶない。リュックを背負っていると警察官にやめろ!と言われ、リュックを胸に抱いてややまぬけな姿であるきました。本通には主に衣料が売っていました。本通から小路に入ると銀細工・食器を売る店が10以上も並んでいる通りがあったり、布生地の専門店ばかり並ぶ通り、本屋ばかりの通りもありました。

どの店も小さく、大型店というのはありません。路では露店が出て菓子など売っています。その菓子も火を使って作るもので、通り過ぎると火力の熱気が襲います。日本のお祭りのてきやさんを思い出します。とにかくすごい人ごみなので、びびっていましたが、危険だとか、怖いということはありませんでした。観光地でのような付きまといやこじきもわずらわされませんでした。

最後は、デリー最大のモスク、ジャマーマスジッドの裏のバザールを抜け、まさに日没の空にジャマーマスジッドの巨大なモスクを見上げたのでした。このチャンドニーチョークはイスラムのムガル帝国の台所であり、イスラム式のバザールの余韻を色濃く残しています。「インド-イスラム文明」という概念が実感できます。




インド、南と北

2004年07月14日 13時52分19秒 | インド
チャトニーは野菜からつくったペーストです。「パン」につけます。

写真は4つのソースです。といた粉を伸ばして焼いたもの(ナンもその1種でしょうが)につけて食べるソースみたいものです。野菜を原料としたペーストです。左の白いのはココナッツのソース、中の上はたまねぎを煮詰めたソース、左の緑色のはPalak leafのチャトニーです。真中下はSambarというものです。南インドではご飯とこれを食べます。Sambarはカレーか?というのはインド人で意見が分かれました。Sambarは野菜スープでカレーではないという派と、いやあれはカレーだと言う派です。この背景にはインドの南北問題があるのかもしれません。CurryもSambarも似たようなものなのですが、南部ではSambar、北部ではCurryということです。たしかにSanmarはCurryと微妙に異なるでしょうがその差異を南部のインド人は重要視して北部のカレーとは違うんだよ!といいたいのではないでしょうか?ところで、南部と北部どちらがインドとして正統か?というと難しいですね。北部は中世からモンゴル、イスラム勢力による征服地域なので、イスラム色が強く、古来のインド色はイスラム色と混ざっています。南部は相対的に征服の度合いが低いのでより古来のインドらしさが残っているのかもしれません。肉食は北部に多い気がします。とくにマトンを食べるのはイスラムの食文化なのです。南部インドでもムスリムはマトンを食べるそうです。どちらにしても、Sambarはチャトニーではありません。

3つのチャトニーはどれもマイルドでスパイスバリバリというものではありません。たまねぎチャトニーはほの甘くておいしいです。

デリーの大きな本屋

2004年07月13日 16時49分09秒 | インド
東京35℃、デリー40℃ 亜細亜は暑い

デリーは40℃だけど外に出てもそうじりじり暑いわけではない。もわーとしている。それは雲が多いせいだろう。今デリーはモンスーンシーズンらしく、お日様がじりじりしているわけわない。でも40℃というと体温より高いわけだから、外の人たちはどうして大丈夫なのか、素朴な疑問。

ちなみに、昨日生徒の写真を掲載したが、インドでは夏休みはもうおわったそうです。外にいる子供は夏休みではなくて、学校にいってないのでした。


上の写真は昨日書いた大きな本屋さんの内部。


温度、湿度を実測したところ、40℃で湿度は40%でした。湿度がそう高くないです。

いいとこの子はリキシャで

2004年07月12日 18時56分25秒 | インド
ダウンタウンの喧騒の中にある、いいとこの子の学校(らしい)近くにて

昼休み、デリー門より、ラールキラー側の区画、すなわちムガール朝時代の城壁内城下町に行く。Ansari Road沿いにはちょとした本屋街があった。4階建ての大きな本屋に行った。たしかに売り場は広かったし、本もきれいにならべてあった。しかし、ほんとんどがアメリカからの輸入本であり、インド史の本はろくにないのにアメリカの歴史の本はたくさんあった。

写真は、学校帰りのいいとこの子供らしきが、リキシャで帰る様子である。片目が白濁して見えなく、痩せた老人の引く自転車リキシャに悠然と座り帰っていくのであった。

知的印度美女

2004年07月11日 21時03分22秒 | インド
印度美女はほんとに目が大きいぞ!

彼女はトラベルエイジェンシーに、I ask you to arrange a guide with inteligent and typial Indian beauty, and she is so familier with Delhi.と言って頼んだガイドさんである。ある工科大学で数学を専攻する修士の学生さんとのこと。正面の写真はお見せできないので、うつむいた姿を披露する。ほんと目が大きい。日本人はふつう (後づけ書き;インド人もふつうそうです) 上まぶたと下まぶたで黒目上部を覆い、白めの部分はあんまり見えないが、彼女は黒目を囲う白目の部分もはっきりみえる。 (あと付け書き:これは おいらが 彼女の目を見入ったとき、彼女も目を見開いておいらをみたからなのでしょう。写真を改めて確認すると普通にしていると白目部分は見えません。)

♪~When I look into your eyes~♪
♪~your love reserved for me~♪~

ということにはならなかったが、コンタクトレンズをしていることがわかった。日本人はふつう(このフレーズ2度目 today)コンタクトレンズはまぶたで上下部が支えられると思うが、彼女はまるまるコンタクトレンズの円が見えてあまりある。はがれておちないようにね、と応援したくなる。

インド女性は普通23-4才で結婚するとのこと。なので、おめえさんはどうすんで~?と尋ねたら、親が決めたひとと結婚するとのこと。それで、おめーさん、おめーさんを好きな男が言い寄ってくるはずだけど、どうするんけ?と尋ねたら、お断りするとのたもうた。ガイドの途中、何度か携帯の電話が入った。親からだという。門限は6時だって。かの女の姓はAといって、インド史でもある王朝を張った姓なのだが、関係あるんけ?と尋ねたら、そうだとのおこたい。おまいんちは、やっぱ、conservativeなのか?とこれまた尋ねたら、little bit とのおこたい。

PhDの学位を取るつもりとのことなで、じゃー、がんばって!


憧れのタージマハル

2004年07月11日 12時55分32秒 | インド

インド国鉄の特急はおやつも食事もでるぞ!2時間の旅で。

朝4時起き。5時にホテルを出る。旅行エイジェンシー(個人経営)の軽自動車でニュデリー駅へ。朝なのに人でごったがえしている。6時発ボパール行きの特急で出発。席はAC3(エアコン付き)車。運賃は395ルピー(約1000円)。ミネラルウオーター、おやつ(ビスケット、紅茶)そしてご飯がつく。飛行機みたいだよ。

8:30アグラ・CANNT駅到着。上記のエイジェンシーを通して手配していた(70US$)車とドライバーとおちあう。向こうがおいらの名前を書いた紙を掲げて駅の出口でまっている。まずは、90分ほどかけてファテープル・スイークリーに行く。宮殿あとである。皇帝アクバルにはヒンズー教、イスラム教、キリスト教の3人の王妃がいた。皇帝の寝台に1人以上の王妃が入ることはないと、ガイドさん(100ルピー)が言っていた。

アグラに戻り、アグラ城そして、タージマハルへ。門をくぐりぬけ、この門でさえ相当巨大壮麗なたてものである、はじめて目にしたのが上の写真。みんな、たちすくんで見ている。タージマハルでは廟の中に入って、あの白亜のドームが天井である、棺のまわりで座りこんで時間をすごした。中は薄暗く、ひとが棺のまわりを一周して帰っていくがその外周の大理石の床に座り込んだ。多くの人が座っていた。疲れていたから。涼しいし。そしたら、ここにすわるなーと、最後は追い払われた。



金乞いの少年・コロニー考

2004年07月10日 04時26分13秒 | インド
こじきの少年に付きまとわれ、最後に2ルピーあげて、「モデル」になってもらいました。デリー・コンノートプレイスにて。

【コロニー考】

コロニーは植民地と日本語に訳されている。というか植民地という語は日本人にとてもなじんでいてその原語がコロニーであるとあんまり意識しないのではないだろうか?(おいらだけか?)。その日本語の植民地という語感は、「それでは日本はアメリカの植民地だ」とかに使われるように、まず(日本)社会があってその社会全体が別の国や社会に従属するというものではないか。植民地社会とはまず社会があって、上層部に支配者が君臨しているというイメージ。ここ数日体感したのは、コロニーとはある人たちが自分たちの住みやすい空間を形成している場所あるいは形式、なんではないかと。用例としてはスペースコロニーとか。デリーの地名にもなんとかコロニーとかある。最初びっくりした。インド人は植民地・コロニーとかに敏感でもう二度と植民地・コロニーはいらないと考えていると思った。このデリーでのコロニーという地名は新たな居住地域というイメージなんだと思う。

具体的には、インドに来て、グローバルチェーンのホテルに滞在して、エアコンつきベンツで送り迎かいしてもらって、これまた快適なネットができる仕事場で働く。この一連のおいらの存在空間がコロニーである。昨日、フマユーン廟に行った。帰りゲートでこどものこじきがまとわりついてきた。4-5歳だろう。おいらは無視した。最後は車のドアまであけてきた。おいらは、黙っていた。ドライバーがそのこどもこじきを追い払って<>。あー、おいらはただふんぞりかえっていただけだった。なにもできないので、ふんぞりかえっていたのだ。地に足着いた一人旅なら独力でこじきと対峙しなければいけない。コロニーにいるとめんどうくさいことは他人まかせでよくなってしまう。そして、コロニーにいるのは資本の手先だからである。

デリーの本屋

2004年07月09日 21時09分47秒 | インド
横積みが多いんです。

コンノートプレースの本屋に行く。小さい。がインド一般の本、歴史の本がある。2階は軍事ものの本が集めてあった。2階に上がると店員が電気をつけてくれたので、調子にのって、インドは海軍増強に努めてきたので、インド海軍の本はないか?という。すぐにはなく、最後に今年のインド軍事年鑑を紹介される。2000ルピーちかく。まあ、いらないやとおもったが、ぺらぺらみてると湾岸戦争とインドとか考察してあったので、あとで買わないで後悔することを考え買う。ちなみに、インドは湾岸戦争には参戦してないはずだが、近所の大火事で大変だったのだろう。あと、子供むけインド史の本、インドの支配者の総覧(イスラム、英国)、デリー関連の小説を買う。締めて、2890ルピー。

牛とコンピューター

2004年07月09日 19時17分04秒 | インド
J.G. は、じゃー、がんばって、の略です。


ある方(こちらからこのblogを押し付け観覧していただいた)から、小熊英二『牛とコンピュータ』は当然読みましたよね、とのメールをいただいた。この本を知っていたが、負け惜しみではないがわざと読まないでいた。本屋でちょっとだけ中をのぞいたが、そのタイトルといい、これまでの彼の著作の仕方からいい、「してやったり」という感じがふんぷんとしていた。これはおいらの感覚で、インドに行くからとの自意識過剰に由来するところも多い。わざと読んでない最大の理由は、この本を読んじゃうと彼のインドを見る枠組み、それも『牛とコンピュータ』というくらいだから伝統社会とグローバル化での勃興現象を考察したものなのだろう、に自分の脳みそも型づけられてしまうのではないかと考えたからである。つまり、他人のインド観を無意識に継承してしまうのを恐れた。

そういう、おいらもがきのころは、『インドで考えたこと』を読んだし、タイトルは忘れたが岩波新書でのインド滞在紀、その著者は東大出でデリーで1960年代日本語教師をし、その後東大教授だったとおもうが,も読んだ。両者とも当時で既に昔の本になっていたのだが。前者は全く記憶に残ってない。後者では、外国語学校(つまりその学校の日本語教師と彼はなったわけだが)のボスが変な日本語、つまりは性的なヴォキャブラリばかりを確認してくること、あと、底浅い反戦気分で、戦時中の東大のアジア研究は何をしていたんだ!それに、こんどデリーに来た東大調査団は、物見遊山風で、何だ!と書いてあったことを思い出す。どちらかの本にインドの製鉄所の写真があり、製鉄しているインド人は「日本に輸出したい」と言っていると書いてあった。この本を読んだころ日本は製鉄王国だったのでとても違和感があった。つまり、インドと工業は結びつかないのであり、インドはインドらしくあれ、というこちら様の勝手な観念があった。そんなふた昔もみ昔前と劇的に変わって、インドは現在年8パーセントの経済成長率で変わっている(この文に価値感はない、経済成長万歳といっているわけではない)。ただ、昔は文化交流かその場かぎりの観光旅行での交流しかなかったわけだが、経済交流という損得かけた真剣かつ獰猛、狡猾な<>な交流が拡大している。

で、『牛とコンピュータ』というのは即物的に考えてそうかけ離れたものではない。だって、一緒にデジカメに写ってるし(~_~:)。これは、仕事場の前で撮ったもの。牛はほんとどこにでもいる。そしてこのblog原稿は牛が門にいる仕事場からネットワークを通して発信され、あなたがこうしてご覧なわけです。牛と一番近いblog発信者です。