いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ノラ・やしお

2004年09月21日 07時11分31秒 | ねこ
野良猫・やしお。

たまに、窓から部屋に入ってきてえさを食べる。

デジカメを撮れるほど慣れているようにみえるが、相当凶暴である。

すごい猫パンチをくりだす。

一度、おいらは血だらけになった。

おそる、おそるデジカメを撮っている。



【冷たい社会と熱い社会】

2004年09月20日 15時22分59秒 | インド
いか@ 原理的(=おとぎ話的)にインドを考える。

【冷たい社会と熱い社会】

人類のさまざまな社会を理解するため、レヴィ=ストロースは理念型(おとぎ話風抽象的描写)として「冷たい社会」と「熱い社会」を提示した。冷たい社会とは、たとえて言えばねじ巻き時計のようであり、社会の各パーツは淡々と作動しその作動にはエネルギーはそう要らない。一方、「熱い社会」とは激しいエネルギーに伴って作動し多量の原料と多量のゴミを生み出しつつ爆走する社会である。この「冷たい社会」と「熱い社会」を語る上で「エネルギーの消費量」とは象徴的な要素であり、別にエネルギーの消費量の多寡が重要ではない。

「冷たい社会」には歴史がない。「冷たい社会」は、例えば、農村により構成される。その農村は毎年、毎年同じことの繰り返しである。一方、「冷たい社会」は人間中心主義ではない。「冷たい社会」の人間は富の生産、健康・長生き、つまりは快楽、のため技術を開発し、知識を集めるということをしない。神話、民話、伝統的宗教、因習に盲従して生きている。「冷たい社会」の人間は、神話、民話、伝統的宗教、因習に盲従することにより、結構近代までは、突然やってくる混沌から自分たちを守り、「冷たい社会」を維持することができた。

しかしながら、神話、民話、伝統的宗教、因習を打破し、富の生産、健康・長生き、つまりは快楽、のため技術開発を至上の価値とする近代ヨーロッパの出現により、「冷たい社会」は危機に曝され続けているのである。インド社会が「冷たい社会」であるか?は簡単にいえないが、その程度は高い。そして、「冷たい社会」から「熱い社会」への変化に現在インドがある。

例えば、階級についても「冷たい社会」と「熱い社会」では違う。つまりインドのカースト制度とイギリスの階級制では違うだろう。カーストは冷たい社会が熱くならないための安全装置である。なぜなら人間は本来激しい欲望を持っており快楽主義のための技術開発は性である。その性を抑圧するためにカーストは役立っているのではないか?一方、イギリスの階級制、貴族制は流動性がある。つまり、激しいエネルギーに伴って作動し多量の原料と多量のゴミを生み出しつつ爆走する社会の維持に貢献したものは貴族に叙せられる。もちろん音楽産業を通じて貢献したロック歌手もそうである。そこで、もしインド社会が「冷たい社会」から「熱い社会」へと移行しているのならば、カーストがどうなっていくかが注目される。ちなみに日本の被差別問題は産業化の高度化で解決の度合いが高まったと言っていいだろう。

参考文章:《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み



『21世紀のインド人』

2004年09月19日 15時58分50秒 | インド
いか@ インド本を読む。

スーパーに食品を買いに行ったついでに覗いた本屋にあったインド本。『21世紀のインド人』、山田和。この人はこれまで多くのインドに関する本を出している。本の内容はインドの現実を、インドは経済成長していいぞ!という人々に、知らせることである。読んでいて夢がない。事実を根拠にいろいろ書いてあるが、本の主題がインドブームに冷や水を、というものであるから。例えば、インド人の「エリート」・上位カーストは菜食主義者であり、肉を食べないことを誇りにしていて、なんでも食べる人間を侮蔑する、といった話である。ただし、これが一般的であるのか、菜食主義者がなんでも食べる人間を軽蔑しているのか、おいらは知らない。確かにおいらが出稼ぎした職場ではベジとノンベジがいたが、それだけだと思うが。

その他事例を挙げて、インド人の文明的背景が日本の普通の感覚とはいかに相違があるかを説いている。特にインド人の商売人は身分制意識が身に沁みていて、下位と認識すると「奴隷」扱いすることなど。著者の経験とインド在住日本人の経験を基に述べている。ただしその経験は30年前からのもので、とくに在日印僑の話も出てくる。つまり、ここ10年間のインドの経済自由化の主体である経済人との交流の経験をも考慮してあるかは定かではない。

事例として、さらにナイポールの小説を挙げて、仕事分担問題がある。つまり、たとえばタイピングという職務をやらない人は絶対やらない。もしやらない人に強要すると大変になるという話である。このことについては思い当たるふしがある。おいらが出稼ぎした職場では、エンジニアはゴミを床に棄てる。ごみ箱ではなく。それを契約している清掃会社の作業員が掃除する。エンジニアはごみ処理をしない。おいらは、せめて床に棄てるのはやめろ。ごみ箱を設置しろと社長に要求した。もしかして、インドの慣習に合わなかったのかも。ごみ箱が設置されたかは確認せずおいらは去った。

副題は「カーストVS世界経済」である。つまりインドをカーストで象徴化させている。この10年の経済発展とカースト制度がどう関連するか、その機制はわからないが、旧カーストの中上位カーストが主体で新しい中産階級が形成されているのだろう。そして、今後は経済発展がカースト制度の無化にどう影響するか?が問題である。

出張準備・北米出張1

2004年09月18日 18時06分44秒 | 北米出張・事情
いか@ 出張準備をせねば。

写真:残暑-青緑もみじに空蝉-

まだ、昼間は蒸し暑さが続く。

約1週間後の出張準備をしなければいけない。
昨日、旅行レンタル業者にトランクの予約を、web siteから、したがメールで返事がない。今日電話したら、申し込みがそもそも受理されていなかった。今日出しなおし。

今度の出張は、この前のインドと違い、実務ではなく調査団的なものの一員。

全員で8人。知らないひとばっかり。関連「業界」の人たち。でも8人中純粋の役人はいないが、tax eater が5人。民間企業が3人。おいらは最年少だが、おいらの次に若い人が49歳。みんな60近いんじゃないかな。浮いてしまうおいらでした。

民間企業3人のうち2人は大手。おいらは零細企業である。なにより、おいらは 


いわゆる 『正社員』 

ではないのである。ある事情で会社として人を出さねばならなくなり。白羽の矢が当たった人がいやだとごねたので、おいらに廻ってきたのですた。ちなみに いわゆる正社員 と書いたのは法令上、制度上、正社員という言葉・概念はないのです。ただ、終身雇用で働く賃金労働者という暗黙の合意で世間で通用している言葉ですね。終身雇用で働かない賃金労働者、「パート」、「アルバイト」、「フリーター」は偽社員なんか!というつっこみを許す概念です。







秋/インドに行く64才の技術者

2004年09月17日 05時55分17秒 | インド
いか@ インドに行く64才の技術者を思い出した。

【インドに行く64才の技術者】
インド・デリーに行く時、飛行機で隣になった人。60過ぎ。中京地区の自動車部品のメーカーの技術者。営業・経営が仕事らしい人と2人づれ。デリーの工場に技術指導をしに行くとのこと。デリーにはスズキやホンダの工場がある。特にバイクは盛んに生産され、最近は自動車の時代に入ったらしい。この老人、1960年代末から海外渡航の経験あり。当時はヨーロッパに行って、加工機械の買い付けが任務。当時の日本にはろくな旋盤がなかったというのだが、これは本当だろうか?ヨーロッパでは言葉が出来なかったが実地で図面や技術を覚えたと回顧している。さらに、若いのと一生懸命なので向こうの人も警戒やおしみなく技術提供してくれたらしい。当時は羽田空港からの渡航で、大田区・蒲田に泊まり、水杯(みずさかずき)で出発したという。日本の高度成長期に自分の人生が乗った幸せな技術者といえよう。今の若い人には職もないことは想像できないようだ。昔、自分が外国から教えてもらった恩返しであると言っていた。ただこれは少しナイーブではないかと、おいらは思う。

トゥグルガーバード

2004年09月15日 07時11分22秒 | インド
いか@ ねたが切れて、デジカメ写真集を洗い直し。(~_';)

トゥグルガーバード:デリー南方の遺跡。車でデリー中心街から小一時間。遺跡は巨大な城壁で敷地は広い。14世紀のハルジー朝の皇帝ギヤースッディーン・トゥグルク・シャーが造った城市。この皇帝はトルコ系であり、母親がインド人。

史跡はデリー市街から離れていて交通の便が不便なせいか、観光客はまばら。石の史跡を歩き回れる。なぜか史跡の石屋には牛がたくさんいた。小高いところからはデリー周辺に広がる大平原が見れた。


たこ助!宅配

2004年09月14日 06時12分39秒 | その他
いか@ 宅配を愚痴る。

 写真と本文は関係ありません。

通信販売である物を買った。配達時間が指定できた。20-21時にした。その夜20:25に帰宅した。不在票が入っていた。再配達連絡左記には下記5つが書いてあった。
①ドライバー携帯電話
②再配達受付センター(電話受付:7:30-21:00)
③自動受付センター(24時間)
④インターネット受付
⑤$%町(おいらの町)宅配便センター(担当センター)

①に電話をかける。出ない。留守電にもならない。「運転中などで出られない場合があります。留守番電話にお電話番号とお名前を録音してください。折り返しお電話します。」と不在票に書いてあるが。

②にかける。でない。おいおい!電話受け付け21時までだろう!

⑤にかける。なんと「電話番号が変わりました。新しい電話番号は%&$#..です」とマネキン声。変わったなら、不在票に古い電話番号載せるな。かけなおす。出た。でも今夜はだめ。

配達時間は20-21時を指定したのだから、21時までは配達される権利があるんじゃないのか?そいうえば、不在票のお届け日が 9月13日 20:00 となっている。なんだ、20時までまっていて、20時ちょうどに不在票をプリントアウトして、その夜の仕事を切り上げたんだな。そのドライバーは。だから、配達時間、20-21時といううたい文句は............。

2度負けた仙台

2004年09月12日 12時18分07秒 | 仙台・竹雀・政宗
ベガルタ仙台のことではない。

仙台開府直後からあったはずの仙台城の大手門や瑞鳳殿(政宗の廟)は昭和20年7月20-21日に焼失した。B-29の空襲によってである。なにより仙台人5000人が死んだ。薩長の作った大日本帝国は、薩長の当初の目論見である攘夷を、対米英蘭戦争として敢行、挙句の果てが全国主要都市の空爆による被害と、なにより大日本帝国の滅亡であった。

幕末、薩長は外国の艦船に砲撃はする、公使館を焼き討ちする。そんな亡国の輩どもに国政を預けてはいけないと考えていた伊達、上杉、南部の大藩は奥羽越列藩同盟を組織し,むつひとさんを天皇として担ぐ薩長クーデター勢力と闘った。戊辰戦争。

仙台は名目上は盟主であった。この戊辰戦争を京都で醒めて見ていたのは岩倉具視。クーデターの首謀者である。西洋外交団に状況認識を問われても、奥州の件は蝦夷成敗であり時間の問題だ、みたいに答えたという。この話は入江隆則のある本で読んだのだけれど出典を忘れた。さらにこの岩倉の発言を入江がすばらしい歴史認識であり、政治認識でもあると評価していたので、2度びっくりした。

さて、岩倉のようなクーデター公家や薩長チンピラどもは、陰謀や戦争に長けていたではあろうが、もともと無教養で国政を運営するビジョンも技術もなにもない。そこで国政のやりかたをコピーしにヨーロッパに行くしかなかった。岩倉訪欧使節、という田舎者のコピペ・パクリ旅行団である。岩倉自身、圧倒的なヨーロッパ文明に衝撃を受け、ヨーロッパに行くということ、即物的に交通も含めての困難さを身に沁みて感じたであろう。その岩倉がローマに行って知ったことは、奥州の伊達家臣が支倉常長遣欧使節訪問団として自分たちより260年前のこの地を踏んでいたことだった。

明治政府は全国を区に分けた。軍の区、教育の区。仙台はなぜかしら第2区となる。すなわち陸軍第二師団や第二高等学校が設置される。これを。岩倉たちがローマで仙台を発見したからだと言う人がいるが、裏付ける史料をおいらは知らない。