朝、賃労働に向かう道すがらのあさがお
■『羊をめぐる冒険』
『羊をめぐる冒険』を約四半世紀ぶりに一気再通読する。
はじめて読んだのは、中曽根自民党が300議席を取った頃だ。
あの頃読んだとき強い印象、つまりこれまでの小説とは全然違うという。
もっとも、単行本化され5年も経って読んだのではあるが。
今回再読して、四半世紀前は何を読んでいたのだろう?あんなに印象を受けたのに、という感じ。全然、難しい、『羊をめぐる冒険』。
■そもそも「羊」が何を意味するのかわからない。ただし、『羊をめぐる冒険』が近代日本の空虚さと愚劣さを描くのが目的のひとつだと了解した。そして、「羊」が近代日本の隠喩らしい。すなわち;
可哀そうな動物だと思わないか?まあいわば、日本近代そのものだよ。
しかしもちろん、私は君に日本の近代の空虚性について語ろうとしているわけじゃない。文庫本(上)p177、先生の秘書の発言、
「日本の近代の本質をなす愚劣さは、我々がアジア他民族との交流から何ひとつ学ばなかったことだ。文庫本(下)p65、羊博士の発言。
つまりは、愚ブログのプロフィールの偏愛マップのおいらの関心事のひとつ”近代の成立とゆくえ、および日帝の成立と崩壊とその後”は、『羊をめぐる冒険』から命じられた冒険ということだ。
■なぜか竹雀
『羊をめぐる冒険』の羊博士はなぜか旧仙台藩士の子弟である。実家は(仙台伊達家の)城代家老を務めた旧家。羊博士は日帝農林官僚として満州国駐在(『羊をめぐる冒険』での表現は"中国大陸北部"、満州という語が村上春樹は使ってない、"日満蒙"は使っている)中に「羊」が体に入り、内地に帰還。その直後、「羊抜け」をする。その「羊」は右翼の黒幕の先生に入る。
その羊を日本に運んできた羊博士は、
羊博士の息子であるいるかホテル支配人によれば、羊博士のこれまでの人生は決して幸福なものではなかった。
「父親は一九〇五年に仙台の旧士族の長男として生まれました」と息子は言った。
つまりは、愚ブログのプロフィールの偏愛マップのおいらの関心事のひとつ”政宗 竹雀・仙台”は、『羊をめぐる冒険』から命じられた冒険ということだ。
●さて、ねちねち;
たとえば、村上春樹の小説は一字一句にこだわり、瑕疵がないどころか、その一字一句は極めて意味深長であり、相当読み込まないとその奥儀は極められないとされる。(佐藤幹夫の『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』)
そうだと思う。なぜなら、今回『羊をめぐる冒険』を読んで、わからないことが多すぎる。逆に言うと、四半世紀前に読んだとき「全然わからない!」という印象を持たず、むしろ極めて感銘を受けたということは、村上作品は素人にもそれなりに楽しめること、あるいは一方この四半世紀で、わからないことはわからないとわかる分別がついてきたのかもしれないことを示す。
しかしながら、村上春樹の一字一句に瑕疵を見つけた。
「父親は一九〇五年に仙台の旧士族の長男として生まれました」
まつがい; 士族という身分は戦後になって初めてなくなった身分である。羊博士は仙台の士族の長男としてうまれたのである。羊博士が生まれた1905年には、「士族」という身分は存在していた。旧は不用なのだ。そんなに旧が使いたいたら、「父親は一九〇五年に仙台に旧伊達家臣の長男として生まれました」ならいいかもしれない。なぜなら、一九〇五年には伊達家臣団は伊達家宗家と主従関係を解消していたから。でも、旧伊達家臣は士族である。旧士族といっていいのは戦後以降である。
羊博士の帝大卒業証書には、宮城県 士族 "羊博士"と書いてあるはずである。もっとも、学士なのに羊博士はないだろう!というつっこみはあまりにベタだ。(参考愚記事;士族と平民)
▼それにしても、なぜ羊博士が旧仙台伊達家藩士、それも上級家臣、の息子という設定なのかはさっぱりわがらねぇ。
くろさんの横顔
■今日気づいたこと;
『羊をめぐる冒険』(1983年)、特に最終部、を読む。
今回気づいたのは"コンラッド"が出ていることと、見出しが思いっきり、
"闇"であること。
夕食を済ませたあと、僕は鼠の部屋から「パンの焼き方」という本と一緒にコンラッドの小説を借りてきて、居間のソファーに座ってそれを読んだ。
(『羊をめぐる冒険III』、8 風の特殊なとおり道)
そして;
11 闇の中に住む人々
そうなのか、『羊をめぐる冒険』の"本歌"はコンラッド、『闇の奥』なのか。
とすると、クルツ=鼠か?
で、ググると書いてある。(google; コンラッド 村上春樹 羊をめぐる冒険)
さらに、今まで、おいらが無知で、気付かなかったこと;
もしそうであったとすれば、僕はまずい立場に追い込まれることになる。鼠も羊もみつからぬうちに期限の一ヶ月は過ぎ去ることになるし、そうなればあの黒服の男は僕を彼のいわゆる「神々の黄昏」の中に確実にひきずりこんでいくだろう
「神々の黄昏」
『羊をめぐる冒険』の"先生"は児玉誉士夫や笹川良一を思わせる日本右翼の黒幕という設定であれば、その先生の秘書の黒服の男も当然右翼でいいわけではあるが、日本右翼というのは「神々の黄昏」で象徴表現されるファシストではない。
村上春樹が「神々の黄昏」という言葉をあえて使ったとすれば、この『羊をめぐる冒険』の黒服の男はファシストであると設定したかったともとれる。
それで、『羊をめぐる冒険』の僕の冒険がすべて黒服の男の手のひらの上で踊らされていたという結末なのであるから、"僕"はファシストに操られながらも、しかしながら「自由意思」と呼称しながら、自力と自分の知力で、黒服の男のシナリオを実行する。そして最後に;
「はじめからここがわかっていたんですね?」
「あたりまえさ。いったい私をなんだと思っているんだ」
■さて、地獄。コンラッド、『闇の奥』の最後は"The horror! The horror!"(「地獄だ! 地獄だ!」)。
地獄と神々の黄昏。これだ↓Amazon
拙記事:さつきみどり2号の種を蒔きました
■【いか@ 筑波山麓 『看猫録』】のアクセス・ランキング
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⇒人物の同定はこちら:戦艦ミズーリでの降伏文書調印全権(重光・梅津)と随行員の人物同定と所属、役職、階級
(『重光葵手記』より昭和20年9月2日の項の一部を抜き書き)
■九月二日午前三時起床、竹光秘書同伴、総理官邸に向かった。
(中略)
集まるものは梅津全権の外、随員として外務省からは岡崎(勝男)終戦事務局長官、加瀬(俊一)情報部長[内閣情報局第三部長]、太田(三郎)終戦事務局部長の三名、陸軍より参謀本部第一部長宮崎(周一)中将の外、陸軍省永井(八津次)少将及杉田(一次)大佐、海軍から横山(一郎)、高岡(定俊)両少将(柴勝男大佐帯同)であった。
朝食後午前五時首相官邸出発、見渡す限りの焼け野原を見て横浜に向かう。
(中略)
六時四十五分米駆逐艦ランスダウン号に移乗して港外に向かう。東京湾上に向かって走ること小一時間、濤声舷を打ち、旭光漸く海波を照らす。海上無数の大小敵艦を見る。
二百十日横浜沖の漕いで出て
プリンス・オブ・ウエールズの姉妹艦キング・ジョージ五世も白く塗った巨艦を横たえて居る。九時十分前米海軍旗艦「ミズリー」号に到着す。更にランチに移乗してミズリーの艦側に近づくことが出来、それから記者を先頭に舷梯を攀ぢて上がった。式場外は立錐の余地なき迄に参観の軍人や新聞記者、写真班等を以て埋められ、大砲の上に馬乗りに跨って列をなして居る。
上甲板の式場には、正面に敵側各国代表がすでに堵列して居つた。左側は写真班、右側砲塔側には参観の将官等重なる軍人が列んで居る。其の中には比島で俘虜となったウエーンライト将軍やシンガポールで降伏したパーシバル英将軍も並んでいた。
中央に大テーブルあり、マイクは向う側に立つ。我等は之に向かって止まり、列んだ。艦上声なく、暫時我々を見つめた。室外なれば着帽の儘で敬礼等の儀礼は一切なし。
敵艦の上に佇む一と時は 心は澄みて我は祈りぬ
九時マッカーサー総司令官簡単なる夏服にて現われ、直ちに拡声器を通じて二三分間の演説をなす。
戦争は終結し、日本は降伏条件を忠実迅速に実行せざるべからず
世界に真の平和克復せられ、自由と宏量の尊奉せられんことを期待す。
との趣旨を述べた。
全権委任状の提出、天皇の詔書写を手交し、先方の用意してある降伏文書本文に記者が調印を了したのは、九時四分であった。
マッカーサーは連合軍最高司令官として、日本の降伏を受け入れる形を以て、文書に署名した。
(中略)
ペルリ提督日本遠征の際に檣旗として掲げた星条旗を博物館から持って来て、ミズリー号式場に飾ったのは、占領政策の政治的意義を示す用意に出たものと認められた。
退艦も乗艦の時と同様の儀礼にて、ランチに移り、駆逐艦に移乗して、湾内を巡視して埠頭に帰り、接伴員に慇懃に分かれを告げて、神奈川県庁に帰着した。米国側の取扱は総て公正であった。
帰路東京湾中より富士見事に見ゆ。
首相官邸に帰り着いたのはすでに十二時過ぎで、直ちに総理宮に報告を了し、昼を了りて、一行を解散した。
▼昭和20年9月6日 戦艦ミズーリ降伏文書調印式
-- 調印日取りは八月三十一日から九月二日に延期することにマッカーサー司令部より通達があった。二百十日も近づいて天気模様が悪く、準備が出来ぬ為めであるとの事であった。二百十日は九月一日である -- 重光葵、『重光葵手記』
昭和20年(1945年)9月1日、戦艦ミズーリに行く前日のことを9月7日に書いた重光葵の文章;
■(以下、抜き書き)
九月一日御召しによって宮中に参内、拝謁。左の如き勅語を賜った。
重光は明日大任を帯びて終戦文書に調印する次第で、其の苦衷は察するに余りあるが、調印の善後の処理は更に重要なものがあるから、充分自重せよ。
世流に押されて早まった思いつめた事のない様にとの優渥なる御諭しであったのである。恐らく梅津参謀総長の「自分に自殺を強いるものである」という言葉が何時の間にか陛下の御耳に入ったものの様である。記者(重光のこと、いか@)が退出した後に、梅津大将も召されて同様な勅語を賜った模様である。天恩無際、至れり尽くせりである。
記者は愈々敵側総司令官の示した降伏文書に調印するという日本歴史始まって以来の使命を果たさなければならぬことになった。政府のみならず直接天皇を代表する訳であるから、記者は其の使命に付いて篤と陛下の御思召を拝し、事態の重大なるを明確にして、将来如何なることが起こっても之に善処し得る様にして置かなければならぬと考え、先ず左の通り意見を口頭を以て内奏した。その案文は左の通りである。
臣葵
大命を奉じ将に東京湾上米艦に到り、天皇及日本政府を代表して降伏文書に署名調印せんとす。之に依ってポツダム三国宣言の受諾は正式に確定する次第にて、今後日本及日本国民上下の忍苦は長期に亘りて極めて深刻なるものあるべし。連合軍は既に上陸を開始し空海は急速に其の管理に帰しつつあり。
ポツダム宣言なるものは其の内容は概括的にして其の運用は敵側の意図如何によって伸縮の余地多し。若し占領軍に於いて我方の誠意に疑問を有つに至らば、事態は直ちに悪化し其の結果は計り知り得ざるものあり。
一端受諾したる義務を忠実に履行することは、国際信義の上より当然の事なるのみならず、此の当然の義務を最も明瞭に誠意を以て果たすや否やは今後我国の死活の懸る岐るる所となれり。
而して我の受諾したるポツダム宣言なるものの内容を検するに、今後の日本を建設する上に於いて何等支障となるものを含まざるのみならず、過去に於いて犯したる戦争の過誤を将来に於いて繰り返さざるべき重要なる指針を包蔵するものなり。
蓋し帝国今日の悲境は畢竟帝国の統治が明治以来一元的に行われざりし点に其の源を発せることを認めざるを得ず。
天皇の御思召しは万民の心を以て基礎とせられ、陛下が国民の心を以て心とせられることは我々の日常拝承せる処にて、一君万民は日本肇国以来の姿なるが、何時の間にか一君と万民との間に一つの軍部階級を生じ、陛下の御意は民意とならず、民意とならず、民意は枉げられ、国家全体の充分関知せざる間に日本は遂に今日の悲運に遭遇せり。
若し日本が将来一君万民の実を挙げ、陛下の御心を国民の心とし、国民の意のある所を以て陛下の御思召しとなすに於いては肇国の姿は還元せられ、ポツダム宣言の要求する民主主義は実現せらるべし。言論、宗教、思想の自由と云い、基本的人権の尊重と云い、総て我国本然の精神に合する次第で、明治維新の依って其の実現の巨歩を進め、今日は更にその完成に邁進すべき時に到達せる次第なり。
然れども、今日は明治当初とは世界の情勢を異にし、我敗戦の規模は未曽有の事に属す。のみならず、戦勝を以て我に臨むものは単に民主主義国たる米英に止まらず、共産主義国家たるソ連をも含む。現にソ連が民主主義の名の下に欧亜の諸国を実力を行使して共産ソ連化しつつある政策は、すでに余りに世人の耳目に顕著なり。此の点に於いて今帝国の内外に亘りて長く危局に面する次第なり。
(一段落略)
仍て今日においてポツダム宣言の忠実確乎たる実施によって国際信用の回復を期し、他方国民精神の高揚を計り、新時代の要求に副う新日本の建設に対し新たなる決意を要すと思考せらる
陛下は記者のメモによる内奏を御聴取りになり、力強く、
外務大臣の言葉は完全に朕の意に叶うものである。その精神で使命を果たして貰い度い。
と仰せられた。これで記者も愈々万事、心用意は整った訳である。
(以上、抜き書き終わり) 重光葵、『重光葵手記』、-戦争を後にして-、<帝国ホテルの暁夢> より。
▼明日は、戦艦ミズーリに赴くため朝3時に起きなければならない。
●上記文章を読むと、降伏文書調印前に、敗戦の原因として、政府と軍統帥部署との割拠・不整合・対立、その結果としての国家理性の不全、軍部の国民の不当支配、そして、現状と将来の認識として、"基本的人権"の重要性、米英型民主主義は日本の原理とあっているなどなどの認識が重光と昭和天皇の両者が持っていたことになる。
●でも、一方、重光はこの時点で、米英型民主主義になるとしても"大日本帝国"がなくなる、つまり、占領軍が新憲法を制定するとは考えていなかったのではないだろうか?