草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

日本の安全保障政策はリアリストに徹すべきだ

2023年11月05日 | 自衛隊
 ネットを見ていると、殺戮された人たちの遺体が転がっている。そうした悲惨な光景があたりまえのようにアップされている。それを見て胸を痛めない人はいないだろう。
 戦争というものは、まさしくそういうものなのである。しかし、なぜ人々は武器を取って殺し合うのだろうか。平和主義者は、よく聖書の「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」という言葉を口にする。宗教家にとってはそうであろう。
 しかし、マックス・ヴェーバーは「聖者にとって以外には、卑屈な倫理である」(『職業としての政治』清水幾太郎訳)と書いている。そして、ヴェーバーは「蓋(けだ)し無宇宙論的愛の倫理の結果として『悪しき者に抵抗(てむか)ふな』といわれている場合、—政治家にとっては逆に、悪しき者に抵抗(てむか)え、然らざれば―汝は悪事の共犯者たるであろうという命題が妥当するからである」(『同』)と断言したのである。
 宗教的な倫理に縛られていては「悪しき者」によって人権が蹂躙され、我が同胞を奴隷にまで転落させることになるのだ。それが分かっていて放置することは、政治家としての怠慢であるばかりか、ある意味では犯罪に加担したのと同じなのである。
 だからこそ、政治家たるものは、宗教的な倫理と、現実政治で求められる決断との板挟みで葛藤することになるのだ。リアリストであるヴェーバーは、政治とは何であるかを、私たちに語っているのだ。
 今の我が国の現状を考えれば、戦争の危機に備えないというのは、政治家として失格であり、「悪事の共犯者」になることだ。
 日本の国土が戦場にならないためには、どうすべきかという方針もなく、わけもなく米国の兵器を買わされるのも、未だに憲法9条を振りかざすのも、あまりにも東アジアの情勢を甘くみている。もはや私たちは、ウクライナのような「管理された戦争」に身を投じるのではなく、非核三原則を破棄して、米国との核の共有か、さもなければ核武装を選択するしか、生き残る道はないのである。
 ヴェーバーにいわせれば、それは「強制力の中に身を潜めている所の悪魔と関係する」(『同』)ことだが、日本国民の命を守るためには、それもやむを得ないのである。
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