田原総一朗はもはや老害である。田原にとってはジャーナリストやマスコミがまともで、日本国民は愚かなのである。田原は昨日、「田原総一朗公式サイト」に「『対韓強硬論』支持7割で思い起こされる、東条英機への『国民からの手紙』」をアップした▼「韓国なんて要らない」を特集した週刊ポストを、朝日新聞をはじめとした様々なメディアが批判し作家たちが抗議したにもかかわらず、日本国民の圧倒的多数が韓国に怒っていることに違和感を抱くのである▼9月2日付の日経新聞朝刊に載った世論調査の結果で「対韓政策支持7割」「日本の譲歩不要67%」という見出しが踊っていたことに、大東亜戦争を支持した日本国民を重ね合わせるのである。「戦犯」として処刑された東条英機にあてた手紙の多くが弱腰をなじるものであったことに触れ、戦争を決断することになったのは、日本国民のせいだと決めつけるのである▼田原の偉そうな物言いはオールド左翼の特徴である。大東亜戦争を煽ったのは朝日新聞などの大新聞ではなかったか。そして多くのインテリが大日本報国会に加わり協力したのである。そのことを不問にして、お国のために命を捧げた名も無き者たちを愚弄すべきではない。しかも、文在寅が韓国を赤化するために、反日を利用しているのであって、日本国民が身構えるのは当然のことなのである。韓国の言いなりになれという田原は、岩波文化人のオールド左翼の成れの果てであり、私たちの内なる敵なのである。
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党争の本格化は16世紀後半以降である。分派を挙げれば、南人、北人、大北、小北、骨北、功西、清西、少西、老西、……。また、各派が信奉する名儒を祀る『書院』という儒学所が各地に建てられ、これを介した荘園が徐々に拡大していった。」(「朝鮮史」萬 遜樹)
1592年、日本軍が大軍で侵攻してきた。任辰倭乱(ジンシンワラン)(注:文禄の役)である。加藤清正の軍は領土の最東北端まで侵入し、王朝存亡の危機に立たされた李氏朝鮮は宗主国・明に援軍を要請した。その後、戦況は停滞し、和議の交渉が継続したが、1597年に日本軍はふたたび大軍を派遣して攻勢に出た。丁酉再乱(テイユウサイラン)(注:慶長の役)である。日本軍は、翌年8月の豊臣秀吉の病死を機に撤退を開始した。
日本軍の朝鮮侵攻に対応した明の軍事力が弱体化した隙に、今の中国東北地方にあたる地域にいた女真族の中の愛新覚羅氏出身の「ヌルハチは、1616年、『金国』の再興を宣言し明から独立した。これを後金という。1619年にヌルハチはサルフの戦いで明の大軍を撃破し、勝利に乗じて地域の中心である瀋陽を占領してここに遷都した。・・・ヌルハチの息子ホンタイジは、1627年、・・・朝鮮に遠征軍を派遣し屈服させた。これを朝鮮では丁卯胡乱(テイボウコラン)と呼ぶ。朝鮮にとって女真人は胡(野蛮人)だという意識である。この時は後金を兄とし朝鮮を弟とする盟約を結び、親明政策を破棄し、王族を人質として差し出すことなどを条件として後金軍は撤退した。・・・1636年、ホンタイジは国号を『清』と改め、満州族・漢族・蒙古族に君臨する皇帝を名乗り、朝鮮に臣従するよう要求してきた。朝鮮がこれを黙殺するやホンタイジは10万の軍を率いて朝鮮に攻め込み、漢城の南にある南漢城山城に籠城した朝鮮国王仁祖を捕らえて服属を誓わせた。1637年、仁祖は漢城南郊を流れる漢江の渡し場三田渡で臣従を誓う三跪九叩頭の礼によってホンタイジに許しを乞うた。三田渡には、朝鮮の手によって、『大清皇帝功徳碑』が建てられ、ホンタイジの徳を称えて服従することを誓わせられた。これを朝鮮では丙子胡乱(ヘイシコラン)と言う。服従の条件として提示されたのは、明皇帝の冊封を破棄すること、国王の長子と次子や大臣の子を人質として差し出すこと、明に遠征する際には援軍を出すこと、毎年黄金100両・白銀1000両など大枚の朝貢を送ることなど、朝鮮にとって過酷なものだったがすべて承諾せざるを得なかった。清皇帝に対しては朝貢などの名目で使節を送り、朝鮮国王は清皇帝の冊封を受けてその臣下というかたちをとることになった。この関係は1895年、日清戦争終結のために日本と清との間で締結された下関条約で、朝鮮は『自主独立』の国であると定められるまで、続けられた。」(『韓国朝鮮の歴史』)
まさしく、「朝鮮が中国の忠実な臣民であり続けてきたことは間違いない事実であり、『誰にも支配されない誇り高く優秀な民族』は完全な虚構であるのは言うまでもない。・・・15世紀に独自文字であるハングルが発明された時も、両班(特権階級)はこぞって使用に反対している。『自分たちには漢字がある、独自の文字を持つのは未開人だけだ』というのがその主張だった。」
「韓国の国旗である大極旗は中国の易経がもとだし、『金日成』『金大中』のような人名も漢姓に基づいている。どう否定しようが、事大の伝統はそれほど深く半島文化に根付いており、精神構造そのものともいえる。」(『立ち直れない韓国』)