会津美里町雀林の法用寺は、酷暑のなかであっても、往時を偲ばせる雰囲気をたたえていました。徳一ゆかりの寺としてよく知られた所です。
会津坂下町方面から向かったため、新鶴を過ぎてから、ハンドルを右に切り、会津只見線のレールを越えて、盆地西の山沿いに到着しました。
出迎えてくれたのは、二王門の金剛力士像(国重文)でした。本物はそこから先の観音堂に安置されていますが、写真だけが飾ってありました。
それから会津三十三観音霊場の二十九番札所である観音堂に手を合わせました。徳一がお寺を建てる以前の養老4(720)年、得道が開基したと伝えられ、大和桜井の長谷寺との深い縁が伝説として残されています。
真実のほどは分かりませんが、全く根拠がないわけではありません。江戸時代の将軍綱吉以前は、長谷寺は法相宗の興福寺の末寺でした。
いうまでもなく、法相宗の僧であった徳一は、東大寺や興福寺で学んだといわれています。
安永9(178〇)年竣工で、会津で唯一残っている三重塔の周囲を歩いていると、無住の寺でありながらも、その静けさがありがたく思えてなりませんでした。
会津坂下町方面から向かったため、新鶴を過ぎてから、ハンドルを右に切り、会津只見線のレールを越えて、盆地西の山沿いに到着しました。
出迎えてくれたのは、二王門の金剛力士像(国重文)でした。本物はそこから先の観音堂に安置されていますが、写真だけが飾ってありました。
それから会津三十三観音霊場の二十九番札所である観音堂に手を合わせました。徳一がお寺を建てる以前の養老4(720)年、得道が開基したと伝えられ、大和桜井の長谷寺との深い縁が伝説として残されています。
真実のほどは分かりませんが、全く根拠がないわけではありません。江戸時代の将軍綱吉以前は、長谷寺は法相宗の興福寺の末寺でした。
いうまでもなく、法相宗の僧であった徳一は、東大寺や興福寺で学んだといわれています。
安永9(178〇)年竣工で、会津で唯一残っている三重塔の周囲を歩いていると、無住の寺でありながらも、その静けさがありがたく思えてなりませんでした。