つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

億萬山七福尊真延寺の土井慈功住職より(その1)

2009年11月06日 | 名所
                 真延寺の由来について

真延寺は、名峰筑波山を背景にし、土浦市及び霞ヶ浦を一望に眺める景勝明美の地に立つ。
億萬山七福尊真延寺が正式の名称で、無宗派で常陸七福神霊場。
七体の七福尊があり、そのうちの布袋尊像は永正元年(1504)のもの。
新春に参詣すると七難即滅、七福即生極まりなし・・・

億萬山七福尊真延寺の住職は、土井慈功さん
建設省職員から転身して住職となった。
躰道壮年倶楽部で一緒に活動していたので親しく交流させていただいている。
11月23日に開催する例大祭の案内が届いた。
その中に「七福尊の福と幸せの世界」と題した土井慈功住職の資料が入っていた。
その内容について数回に亘り、掲載していきます。

(その1)
今年の最大の事件は総選挙で政権が交代したことであろう。政治の要諦は国民を幸せにすることだ。しかし国民が幸せになりたいと思ってもなかなか満足する状況にならず、政権交代になってしまった。
幸せは空気のようなもので温風が吹いてくると幸せと思い、寒風が吹いてくると幸せが消えてゆくように思う。

自分の本質が変わらないのに環境の変化によって幸せ度が変わってくるらしい。
あなたは幸せかと尋ねるとほとんどの人が幸せと応える。所詮格差が拡大、犯罪も自殺も多くなり、家庭が崩壊していて自分を不幸と認める人もいるのであろうが
自分を不幸と認めたくない人もいて自分を惨めと自覚するとますます慙愧に耐えられなくなってしまうからだ。他人はあの方は不幸な生い立ちと思っていても、当人はそう思わない。思いたくない。

刑務所に服役している犯罪者は幸せについてどのように思っているのか。彼等だって幸せになろうと思っているに違いない。
どの様な人間でも一縷の希望を持っていないと生きてゆけない。幸せの根源(芽)を万人が所有している。だから努力して幸せの芽を発芽させて開花させるのだから自分を不幸と思いたくない。

幸せは遠くにあるのではなく身近なところに漂っている。粗末な食事であっても本人がありがたい感謝の気持で幸せと思っているとしたら、他人がその食事が不味いと疑問を持っていても彼等から幸せを奪取することが出来ない。幸せの有無は本人の専決事項であって誰からも侵犯されない聖域である。

何かの事件で暗黒の中に落ち込み解決策を見出すことが出来ない状況であっても希望を失ってしまうと破暗できない。どのような状況でも神仏は一条の光を射している。我々はこの一条の光を見い出せず苦悩する。一条の光の存在を確信して暗黒の世界から脱出することが可能だ。一条の光のように幸せの芽を所持しているので不幸の状況でも幸せは身近にあるので幸せを握むために自分を幸せと思うのが好都合である。
(つづく)

(11月6日記)
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