板東英二氏
NTTソフトソリューションフェア2009の展示会が「いまこそ新価値! みらいを新発見!!」のテーマでウェスティンホテル東京で開催されていた。
インターネットで申込をして参加した。
次世代コミュニケーションを支援するソリューションなど参考になる展示がしてあり、スタッフから詳細な説明を受けた。
そのフェアの一環として、板東英二氏(タレント・野球評論家)によるセミナーがあった。
板東氏は「このような立派な会社のセミナー講師として呼ばれるのは場違いではないか」と切り出して、「板東英二のがむしゃら人生」のテーマで1時間の講演を担当していた。
主に、板東氏が歩んできた野球人生と現在のタレント活動についてであった。
1940年に満州生まれ。残留孤児にならず家族とともに引揚者として徳島県の板東収容所跡地に住む。そこは第一次世界大戦後、ドイツ軍の捕虜収容所であったところ。
布切れで作ったグラブとボールで野球を始める。高校時代は早朝から深夜まで学校の授業時間以外は野球の練習に明け暮れていた。高校野球の甲子園球場では魚津高校の村椿投手と投げ合った延長戦は今でも話題となることがある。
当時はプロ野球より高校野球の方が人気があった。卒業して東京六大学で神宮球場で野球することが憧れであった時代でもある。
赤バットの川上、青バットの青田、物干し竿の藤村の活躍を知り、大人の野球を見て育った。
昭和33年に長嶋茂雄が立教大学のスーパースターとして巨人軍に1,800万円の契約で入団し、翌年には王貞治がやはり巨人軍に1,800万円で入団した。当時は100万円と土地があれば一生暮らせる時代だった。
同年、中日ドラゴンズと東海銀行の役員4名が徳島の貧しい我が家に来て、2,000万円の現金を見せられて、中日ドラゴンズに入団を決意したことを覚えている。
ユニフォームを脱いだあとは、今度はボールをマイクにもちかえていた。
テレビのクイズ番組「アップダウンクイズ」「クイズダービー」「世界ふしぎ発見」のエピソードも披露した。
今までのがむしゃらに生きてきた人生を、楽しく、おかしく、飾らない言葉で語っていた板東英二氏の講演でした。
(11月20日記)
NTTソフトソリューションフェア2009の展示会が「いまこそ新価値! みらいを新発見!!」のテーマでウェスティンホテル東京で開催されていた。
インターネットで申込をして参加した。
次世代コミュニケーションを支援するソリューションなど参考になる展示がしてあり、スタッフから詳細な説明を受けた。
そのフェアの一環として、板東英二氏(タレント・野球評論家)によるセミナーがあった。
板東氏は「このような立派な会社のセミナー講師として呼ばれるのは場違いではないか」と切り出して、「板東英二のがむしゃら人生」のテーマで1時間の講演を担当していた。
主に、板東氏が歩んできた野球人生と現在のタレント活動についてであった。
1940年に満州生まれ。残留孤児にならず家族とともに引揚者として徳島県の板東収容所跡地に住む。そこは第一次世界大戦後、ドイツ軍の捕虜収容所であったところ。
布切れで作ったグラブとボールで野球を始める。高校時代は早朝から深夜まで学校の授業時間以外は野球の練習に明け暮れていた。高校野球の甲子園球場では魚津高校の村椿投手と投げ合った延長戦は今でも話題となることがある。
当時はプロ野球より高校野球の方が人気があった。卒業して東京六大学で神宮球場で野球することが憧れであった時代でもある。
赤バットの川上、青バットの青田、物干し竿の藤村の活躍を知り、大人の野球を見て育った。
昭和33年に長嶋茂雄が立教大学のスーパースターとして巨人軍に1,800万円の契約で入団し、翌年には王貞治がやはり巨人軍に1,800万円で入団した。当時は100万円と土地があれば一生暮らせる時代だった。
同年、中日ドラゴンズと東海銀行の役員4名が徳島の貧しい我が家に来て、2,000万円の現金を見せられて、中日ドラゴンズに入団を決意したことを覚えている。
ユニフォームを脱いだあとは、今度はボールをマイクにもちかえていた。
テレビのクイズ番組「アップダウンクイズ」「クイズダービー」「世界ふしぎ発見」のエピソードも披露した。
今までのがむしゃらに生きてきた人生を、楽しく、おかしく、飾らない言葉で語っていた板東英二氏の講演でした。
(11月20日記)